消化とダイエット

御機嫌いかがですか?中山さゆみです。変ですね、これを書き終わるまでに、お会いすると思います が、手紙のように書かせてください。

この前お話した法律事務所、落ちてしまいました。弁護士の仕事について無知だったのがわかりまし た。まだまだ子供なのだと思いました。法律の勉強の前に人間の勉強をする必要があるのです。今の私は それを謙虚に受け止めて反省できるだけましなのだと思いました。就職浪人はしたくありませんから、商社 に内定をいただけたら、そこに決めようと思います。営業マンの補助活動をするらしいのですが、具体的に は何をするのかわかっていません。だから、イメージとの葛藤に悩むことが予想されますが、本当の目的のた めの勉強になると思っています。貴方が司法試験に受かったら、私もすぐに続いて受かるつもりなんだか ら。不可能とは言い訳の言葉だと誰かが言ってました。

二十二歳の誕生日を迎えるにあたって、私はちゃんと話してなかったことを整理して貴方に打ち明けよ うと、これを書いています。たぶん、いまだに残っているだろう私のいやな面も書くことになります。私なりの思 春期の一ページとして冷静に受け入れられる今、恥ずかしい思いは消えかけています。私の罪の意識が、 灰色の雲のように心を暗くしていましたが、すっかり消化できる気がする今こそ、これを書いて葬り去ろうと 思います。

私がどのくらい悪いことをして、どんな迷惑を掛けたのか今でも判然としていません。まったく何の影響も 与えていないのかもしれないし、親子喧嘩の種となり、彼女のお父さんの絶望感につながったという恐ろし い考えもあり得ないとは言えません。それは、貴方にも言えることでしょ。私たちは周りを気にしない自分勝 手な行動のせいで、心配を背負うことになってしまった。

ちっぽけな、それでいていつまでも無視できない記憶。 良心というものは厄介なものですね。私はこの6年の間にようやく、ちっぽけな出来事と思えるように整 理できたみたいです。それから、貴方ともっと親密になるにあたって、貴方の良心についても知りたいと思っ ています。

 

ダイエットは憎むこと、恋すること

6年前―― 親友の史子共々志望高校に受かり、充実した学生生活を送るはずでした。高校生に成り立ての私 は大人になれた錯覚と、勘違いを戒める思いが同居していました。

勉強はしても、見聞は少なかったし、まともな、動揺しない人間を演じようとばかりしていたため、恋愛な んかもまったく頭からはずしていました。そんな私に神様がちょっとした事件を起こして、ちょっとした転機を与 えてくださったのでした。

私と史子は小学生来の友達だけど、どこかで私は彼女を見下し、寂しさや鬱憤を晴らすために利用し ていたのでした。私の家は比較的裕福だったけど、引き換えに親の熱心な教育を受けずにわがままに育っ ていました。彼女にお菓子などを振る舞って近付けておいて、自分の話し相手にしたものです。

もともと話すことが好きでもないし、おしゃべりでもない私が、それでもストレス解消にはお喋りしかないと 自覚していました。そういう意味では一人言を言う方だったと思います。でも、やっぱり受け止めてくれる人 がほしかったのでした。史子はその格好な相手でした。なぜなら、彼女は感心しながら聞いてくれたし、真 っ向から反論することもなかったからです。

私は自分の思ったことや考えていることを誰にも話さないで居られる人だと思っていました。私は人の行 いが気に障ったときでも、じっと我慢して抗議しない人でした。親への不満も持っていましたが、親にも抗 議していません。私は間違った考えを持ちたくないあまり、出来事に直面しても、ゆっくり論理的に整理す る癖がありました。それが、感情的な噴火が全くなくなった原因です。

最終的には整理された理屈を史子にぶちまけて私が如何に深い考えを持っているかなど顕示したもの です。史子は素直に私の期待通りに感心し、共鳴してくれる気持ちのいい存在でした。普段、口が重い 私が、彼女に対してはぺらぺら話せるのでした。彼女はいつもそういう私の役に立ってくれていました。高校 一年のあの頃まで、史子の純朴さ素直さが彼女の魅力を作っていると私は思っていました。私のような普 段おとなしい子が考えていることを聞くことが楽しいに違いないと思っていました。

―― 「ピアノの騒音がうるさいって不満は、その一つ一つが抗議するに足りない、我慢の範囲に収まるものだ ったはずなのよ」と、私は高校からの帰り道、史子に話していた。

4年程前、史子の近所でピアノ騒音殺人事件があった。二人の間に時々その話題が出るようになった のは、加害者を私が弁護しようとしていたから。

「だけど、ピアノ弾いてた人は迷惑をかけていることがわからなかった。それなのに、殺されたのよ。全然 引き合わない」と、史子はうまく反応してくれる。

「加害者に蓄積される不満が自覚されても、2年もの間抗議もせず、今更、音を控えてくださいとは言 いにくい。それが、自分だけの我慢で済むものならよかったけど、息子さんの受験なんかが重なってくると、 息子のことを第一に考えてしまってね。動機としては成立するでしょ。

それにね、殺された人が迷惑を掛けていることがわからなかったか、わかっていたかは、この加害者の罪 とは関係ないと、私は分かったの」

「自分が迷惑掛けてるとわかってたら殺されたときにほんの数ミリ浮かばれるでしょ。そのぶん、加害者の 罪は軽くなるのかもしれないけど」

「罪はあくまでも加害者の殺意にある。罪が軽くなるのはそういうことじゃなくて、事件が起こったときの心 だと思う。精神に異常が起こったかどうか、誰だって殺害に及びうる状況だったかよ。突然のきっかけに、今 こそ抗議のときという思いと、蓄積された鬱憤と、息子の受験勉強のことなんかが一気に、怒りの形で噴 出した。そのことが一般的に同情されるものなのかよ」

「私は加害者に同情したくないけど、そういう心になり得るのかなぁ」 「殺人が起こるほどのことなのに、被害者は罪の意識を持っているそぶりがなかったらしいし、謝罪もして いない。苦情を言わなかったほうばかりが悪いかしら」

史子はうなずきながら、「あ、そうか、ご迷惑でないですか?って伺ってみる必要があったということね。さ すがに深く考えるわね中山弁護士」

私はどんなもんよ、と言わんばかりにいい気分になって続ける。いつもいつもこんなふうに私は分かった風 にものを言い、高慢になっていた。小学生のときからずっと、高校に入学してからまでも、私は史子に対し て上からものを言っていた。

でも、私は実際には高慢なことを言っていられる人間ではなかった。私はあのとき、犯罪者の心を持っ た。

高校の制服がしっくりしてきた5月の真っ只中、私は少し蒸し暑い夕ぐれ時に小さなくだらない殺意をも ってそこへ行った。小さい公園に自転車を止めてその先の石段を上り、がけの上に建っている塀の外側に 身を潜めていた。そこから十メートル程下の道路が見下ろせた。ここから子供が転がり落ちて交通事故に 遭ったことがあって、簡単なブロック塀が作られたのに、こうして塀の外側を子供が通れるほどの隙間があ るのだから意味がない。下の道は時々車が通るくらいの裏道。私ががけの上でしゃがんでいても誰も気付 かないし、気付いてもそれが特に不自然には見えないだろう。崖と言えるけど、九十度に切り立っているわ けでもなく、草も茫々に生えている。私はいつも決まった頃に塀の上を猫が散歩に出るのを知っていた。あ の日も決っと現れるだろうと時間の感覚も分からない状態で待っていた。ミンと名付けられた白地にまだら 黄土色の猫。心待ちにしていたわけではなく、来ないなら来ないでもいいと思ったし、来ないでほしいとすら 思ったかもしれない。涼しい風が湿り気を帯びて冷やりと感じた頃、それが何時頃なのか見失ったまま、思 考を拒否した状態の私は、ぼんやりと塀の上を見つめ続けていた。

小さな鈴の音にハッと立ち上がると、今更、猫の目の光が分かるくらいに暗くなっていることに気が付い た。鈴は現れたミンのものだった。

私は由季への憎しみを今こそ思い起こそうとした。良心との闘いは予想してたことだった。 「ミン」と手を差し伸べると、ちょっと凝視して、飼い猫らしく警戒せずに近付いてきた。 猫は猫でなく、無力化した由季の分身に見えたから、猫の可愛さは私の怒りにかなわなかった。でも、 良心が私を金縛りにしようとしていた。

もうひとつ白状すると、私は太目のカッターナイフを用意していた。殺してしまおうと思ったとしたら持って なければならない。ポシェットからそれを怒りに震えながら取り出そうとしても、私は金縛りに遭ったまま動け なかった。

河村由季の声と顔を思い出し、私が浮かばれることを願おうとしたのだけど、やっぱり動けない。体の振 動が掴んだ猫にも伝わって、それは暴れ始めた。私はどうしようもなくなって

「イッ」とか喉の底からうめいてそれを放り投げた。 ―― どこへ向かって?どのくらいの勢いで?……まったく覚えていません。ギャフンとかうめいたと思いますが、 それが崖の下まで行ったのか、転がったのか引っかかったのかわかりません。私はただひたすらそのつらい状 況から、そう、良心の呵責から逃れようと、走っていただけです。

どうやって坂を降りたか、公園の自転車にたどり着くまでに派手に躓いて倒れたのすら意識に残らないく らいでした。気が付いたら必死で自転車を漕ぎ、あそこから離れていくことだけ考えていました。

私の怒りは浮かばれるどころか、じわじわと腹が立ってきました。由季への怒りに混じって余計に可哀想 な自分、無念で滑稽な自分に腹が立ってきました。なんて無意味な一人相撲してるんだろう。そう思っ て、無念さで心を満たそうとしました。なぜなら、私には良心の呵責がまだ敵にまわっていたからです。

きっと道路にたたきつけられるほど放り投げられてはいない。私は良心に弁解していました。 私はもともと怒りを感じない温和な子でした。ただ、プライドを傷つけられるのはとても辛く、体が震える ほどの怒りを覚えることがありました。自分の考えがいつも正しいと思い込む悪癖がそうしていたのだとわか ります。 ―― 私は中学に入った頃には肥り始めたと自覚していた。そのまま私の体重は順調に伸び、自分が肥った

生き物になっていることを受け入れるしかなかった。女としての美しさと私のこととは無縁だと思い込んだ。 体質だから仕方がない、近眼のようなものだと思い込んでいたし、まだ、さほど肥えてはいないと思う自分 も居た。

食べることで少しだけ埋まる空ろな心をどうしようもなく不快に感じていた。思春期は誰でもそうだと今で も思う。私はピアノを弾いたり、パソコンをさわったりして空ろな部分を埋めようとした。勉強したのも漠然と した不安感からだった。重い体に鞭打って、運動部に入っても能力より体力が続かなく、やめてしまった。 私には考える癖があって、もともとおしゃべりでないため、対話がはずまないことがよくあった。それでも考 えながらしゃべろうとすると次第に他の人と話が通じなくなってゆく気がして、さらに口が重くなった。チャット でミーハーな会話の練習をしようとしても、結局、考えて発言し、挙句にギクシャクして傷ついてしまう。

私は私が正義だと思う兆しがあると薄々感じていた。だからどこかで無理強いになり、分かってもらえな いもどかしさになる。なぜ、この理屈が分からないの?と本心から思うのが、会話の障害になっていた。

正義を本当に分からないと私は自分を盲信してしまうという不安があった。真実に近いものを分かりた いと思う気持ちが法律への興味の始まりになった。高校に入ってももはや私の言う体質は変わらず、体重 は減らず、ようやく、そのことにストレスを感じていると自覚し始めた。女であることを本当に忘れなければス トレスに耐えられないと思っていたし、体質だから仕方がないと思っていた。明るく振舞えればストレスはな くなったかもしれない。私のように史子としか話せない、会話恐怖症に陥りそうな状態ではストレスからの脱 却は不可能だった。この無意識の中に蠢くストレスを怪物にしてしまった事件があの、どこにでもある取る に足りない青春の一コマだった。

―― あのメモが私のロッカーに入っていました。 小学生のとき、同じクラスの男子が私にラブレターを渡したとからかわれ、一種のいじめに遭っていたこと がありましたが、私も結局、いっしょにからかわれました。発端は誰かがでっち上げたラブレターでした。そうい うことがあったから、あのメモには大いに警戒させられました。

小学校での体験で、少しはいじめられ慣れはしていたけど、その分、人を信じなくなる小さな出来事で もありました。あの短文は今でも思い出せます。『元気のない君は本当はハッとする素敵な笑顔を持って いる。それを見たくて君を見守っている。でも、笑わない君に変わってゆくのが気になる』

差出人不明の切り離された一枚のメモ用紙を、私は無視するに限ると咄嗟に思ったものです。私が完 全に無視できなかったのは、暗くなっている自分に思い当たったことと、男性の言葉に、女であることを思い 出したからでした。

オデブに対する嫌がらせが始まったのかもしれない。筆跡や紙の使い方に字の大きさ、丹念に見て、私 の知っている人と頭の中で照合してみましたが、その場では何も思い当たりませんでした。美人なら女子か らいろんないたずらを受けられるものです。そういう意味では私は無視される存在だと思います。

―― 私は、二日後には何ら進展のない状況に、いたずらにしても身が入ってないと思い、メモのことを史子に 相談した。

彼女のほんわかとした頭の回りの悪さを見下していたので、私でも進んで話し掛けられた。 学校の配慮なのか、史子と同じクラスになってとてもよかった。高校生になって二ヶ月もたってないとき積 極的にクラスメートを増やそうとしていない私に自然と友達ができるわけはない。我利勉も多い学校だし ね。

史子と史子の友達になった河村由季の3人で登校することもあったけど、私はなよなよした感じで美人 を鼻に掛けた由季を好きにはなれず、並ぶと自然に真中が史子になる。

メモのいたずらは誰かの気まぐれで、仕掛け人自体が進展を望んでないものと思い始めた頃、「あのこと 由季に話してもいい?」と史子が尋ねた。

「絶対に言いふらさないでよ、仕掛け人の思う壺なんだから」と私は釘を刺しながらも、脚色されたり大 げさになったりするのが怖かったから私から由季に話した。

私には心の底でほのかに沸沸と泡立つ『本物かもしれない』の思いが分かった。それだけに、むしろ、そ れが悟られないように十分注意しながら話した。由季は私の気持ち悪げな話し方を神妙に受け止めてく れた。彼女の中には低レベルな悪戯として伝わったようでホッとした。

「まるで小学生ね」と由季は言った。 私は「小学生のとき、男子が悪戯されてたわ、相手は私で。ほんとに成長しない人が居るものよね」と、 自分から小学時代の軽いいじめを告白した。

―― クラスの男子でカッコいいと言えば辻上君でした。私も大半の女子と一致した見方をしていました。だか ら、あの頃、登校する私たちの横を早足で越してゆく辻上君、今井君、森永君の3人組が気になってい ました。おしゃべりで明るい今井君、美形でスポーツ万能の辻上君、澄ました秀才の森永君。

丁度あの頃、私たちが3人揃っているとき、さっさと脇を過ぎていった3人組の一人、今井君が振り返っ て私たちをチラッと見たことがとても気になりました。彼の視線が由季で止まって「おはよう」と言ったからで す。私たちも

「おはよう」と言ったけど、3様の思いがあったのです。私と由季は、辻上君の後姿に向かって言ったし、 深田史子は最高の笑みで今井君に言いました。でも、今井君は河村由季に言ったし、他の2名は振り 向きもしない。

後で思えば、由季は私より何倍も思いを込めて辻上君の背中に 「おはよう」を言ったはずです。そして、辻上君はそれを強いて無視したと思います。 森永君は振り向かなかったし。後から考えるとあの一瞬はいろんな思いが交錯してたと分かりました。そ のとき、丁度、男子3人の間では由季のことが話題になってたことも想像できます。あえて、振り返った今 井君は

「おはよう」のためではなく、明らかに由季の機嫌を確認したかったのだと思います。辻上君の代わりに振 り返ったつもりだったのかも。

―― 私の辻上君への憧れはテレビタレントのような遠くの存在へのほのかな眩しさだった。接近したいなど考 えてもいなかった。だから、由季の辻上君への思いもきっと同じようなものだろうと思っていた。

「その話って、もう三日も前のことなの」と、由季は私の打ち明けにつぶやいた。 「うん、悪戯ならそれなりに次なる展開があってもいいと思うんだけど、二日経っても何にも起こんない し」私がそう言った後、由季はしばらく歩きながら路面へ目を落としていた。

「それは大変な悪戯かもね」と、由季は真剣な顔で言う。 「その日、放課後、誰も居ないと思っていた教室から飛び出してきた人が居るの」 由季の言葉に、思わず、え?と立ち止まった。 由季も立ち止まって振り返ると、私と史子を交互に見て 「その人がメモを入れたかどうかは何とも言えないけどね」と言う。 「誰なの?」と言ったのは史子。 「どうして大変な悪戯なの?」と、私。 「ホンワカ史子には関係ないけど、私にはおおありよ」と、由季は向き直って歩き始める。 私は横に並んで 「だれ?」と、言う。由季が目を落としていると私はなぜもったいぶっているのだろうと思いながら、あっと気 が付いた。

「まさか」と私は言って「そんな馬鹿な」と笑ってしまった。 「でしょ。だから、悪戯なのよ。私がそう思いたいんじゃなくて、自然に考えてみてよ」 背後で「誰?」と史子が言う。 私と由季は無視して、顔を見合わせている。 「悪戯する?あの人が」と、私は辻上君と低俗な悪戯を天秤にかけていた。別世界の人気タレントが私の世界まで降りて来てこんな私に悪戯して面白いかしら。しばらくして、由季も

「それもそうよね」と言う。 史子はまだわかっていないながら、黙っていた。 私は登校を急ぎながら、心の奥にあったかいものが生まれたことに気が付いていた。なぜなら、ほんの数 ミリパーセントにせよ、メモを入れたのが辻上君で、悪戯ではなかったということが全く考えられなくもない。 私はその恐ろしい勘違いを押さえつけるべく、悪戯の線で決定を下し、以後、努めて心の火種から顔をそ むけた。

校門前で、「本当に辻上君だったの?」と、由季に詰め寄っていた。いけないいけない、早くも熱くなって いる。

「辻上君かぁ」と、ようやく史子が合点した。 由季は「出てきたのはそうよ。手ぶらだったわよ。今、思うと、こっそり何かして出てきたって感じもある」と 言う。

私は落ち着きを装って「何時頃?」と聞く。 「もう5時だったかなぁ、体操部終わって、ロッカーにブラシ取りに戻ったの」 「声、かけなかったの?」と言ったのは史子。 「びっくりして固まっちゃったわよ。せっかくの二人っきりだったけどね」由季はにっこりして言う。 「それに、なんて言う?こんにちは?」 「そうかぁ、気の利いた一言は難しいわね。いざというとき消極的なんだから」と、史子。 「それにしても、だから、辻上君がさゆみにアプローチってのは無理があるわね。悪戯って線も無理があ るし。結局、そのこととメモのことは関係ないんじゃない」史子が言うと、一番あり得る線で会話は落ち着い た。史子は暗にデブの私が辻上君と結びつかないと言ってくれていた。私はそのことで勘違いしそうになら ずにすんだと思った。

ところが、私は教室に入る前、蒸し返すように由季が早口で言ったことが気になった。 「無理があっても、悪戯だと思われずに気持ちを言うとしたら、無記名でぶっきらぼうなメモになるかも」 由季の言葉には私自身が後押しをしているせいか、説得力があった。記名があれば絶対に悪戯だと 思っただろうし、きれいな便箋でないところが生々しい。

その日、由季は推理してみると言い、私からメモの実物を預かった。そのときは由季が私の中の火種に 味方してくれるようで、好感を持てた。だから、用心深い私にしてはあっさりとそれを手渡せた。

私がなめるように見回した限りでは手掛かりなしだったけど、史子や由季にも見てもらったほうが、発見 があるかもしれないとも思えた。

学校に居るときはずっと、辻上君を意識せずには居られなかった。私は比較的後ろの席で、前の方の 彼を見ようと思えば観察できる。それまで、そんな風に見たことはなかったけど、その日だけでも、3回も目 が合った。彼は仲のいい今井君の方に振り返ると、いつもはない私の視線を感じたのに違いないと思おうと したが、どうしても、彼が私を見たとの思いを払えなかった。

―― 私たちはほとんど帰りは一人でした。私は音楽部の2部で、いわゆる音楽コンクールなんかに出ないと 決め込んだ部員でした。進学校は部活もがんばりたい人だけがんばればいいということみたいですね。深 田史子は茶道部で、お菓子を食べるのがクラブ活動。河村由季は体操部で体育館で長身が映える。ク ラブの友達は私鉄利用者や近くの寮生だから私とバスで帰る人は居ませんでした。バスで七停留所行く と、そこから五百メートル程で家に着きます。史子は九停留所、由季は六停留所でしたから、近所の学 生を同じクラスにしてくれたのは学校の配慮だと思っています。五百メートルはちょっとだけ遠回りになる、 緑や花壇の多い公園の中を通る場合の計算です。帰りは絶対にお気に入りの公園を通ります。

その頃から、公園のベンチに腰掛けて本を読んでいる中年の男性を見かけることがありました。初めは 全然気にしなかったけど、3回見かけて3回とも同じ所、同じ服装、同じ姿勢で本を読んで、しかも表情 まで同じ。その変化のなさがかえって気を引き、かすかに記憶に残り始めます。

ところが、その日、辻上君と視線が合った印象を記憶に焼き付けたいその日、ベンチの男は顔を上げ、 私を見たのです。しかも、私の視線と合ってしまったから何とも汚らわしく思い、足早に通り過ぎたのでし た。

そんな状態だから、帰ってからも辻上君のことでほくそえんでいました。勘違いしてはいけないとたしなめる 自分は無力でした。

そこに追い討ちをかけるように由季から電話が入りました。 ―― 「さゆみさん、あなた、気付いてた?MIDORI」 「ミドリ?」 「メモの端っこにMIDORIって薄く印刷してあるでしょ」 「そうなの?」 私は筆跡やレイアウトやらで人物が特定できないかなんて考えてじっくり見回したはずなのに、そういう薄 い印刷には気が回っていなかった。

「ミドリ文具ってメーカが作ったメモ用紙よ」 「そういうところはちゃんと見てなかったわ」 「私ね、これを使っているひとは少ないと思うのよ。メモ用紙なんて使わない人も多いから」 「そ、そ、それで誰が持ってるのかわかったの?」落ち着けと自分に言い聞かせた。 「聞き込みできるほど行動力ないわよ私」と、由季は言って続ける。 「でもね、南さんが持ってたから、一枚もらって、男子で同じものを使っている人が居ないか、今井君に 聞いてみたの」

「今井君?――でも、そんなこと探してくれるかしら」 「持っている人はクラスの誰かにアタックしているから、心当たりがあったら教えてって言ったけど、興味あ り気だったわ」

「そんな事言っておしゃべりな今井君だから、事が大きくならないかしら。それって、辻上君にも知れるっ て事でしょ」

「そのリスクはあるけど、賭けてみたのよ。今井君は美形の辻上君のそばに居たら自分もモテると思うタ イプよ。だから、辻上君のことをよく見ていると思うのよ」

「そうなの?2ヶ月足らずでよく見てるのね、由季さん」 「辻上君見てたら自然と視界に入ってくるでしょう」 由季の電話は何らかの進展を無理強いしているようにも思えた。本来、何もしなければ、何も無かった ことのようにこの件は消滅するものだと思えた。

次の日の登校は一人だったし、帰りも一人だった、公園の男もいたし、いつもの一日が過ぎただけだっ た。家に帰るまでは。

その日も夕飯時になって由季から電話が掛かってきた。 「今井君がね。『教えるから、相手を教えろよ』って言うのよ」と言う。 「それって」私は声が上ずりそうになるのをあわてて押さえ、細く差し込んで来る希望の光を見ないように した。

「で、教えたの?」 「教えないわよ。それはわかるでしょって言ったら納得してくれたし」 「それじゃ分からないのと同じじゃない」と言いながらも、『教えるから』との今井君の言葉にとらわれてい た。

「それがね、ここからよ」と、思わせぶりな由季。 「私ね、気付かれないように今井君を見張ってたのよ」 見張ってたといわれても、由季と今井君は教室では同じ並びでなかったか。 「そしたらね、現国の授業が始まる前、辻上君からメモ用紙を一枚、受け取ってたのよ。話は殆どしてなかったけど」

私は辻上君をチラチラと見ていたはずだ。そんな一コマは覚えがない。由季の観察力には感心した。 「辻上君がその心当たりの誰かってこと?」と、私は早口になっていた。 「そういうことになるわよね。そのメモ用紙を私に見せることはなかったけど」 「じゃあ、わからないじゃない」と言いつつも私には十分な情報だった。 「そうじゃないわ。たぶん、今井君は分かってて私に見せなかったと思うのよ。本当に辻上君だとしたら、 それを私に報告する義務はないでしょ、彼にとっては辻上君との仲の方が重要だから、変なことしたくない わよきっと」

「それはそうよね」落ち着きがなくなっている私より由季のほうが自分のことみたいに頭が回っているようだ った。

「でね、その形が、縦長で、見るからに南さんのメモと同じだったのよ!」 私は言葉をなくしていた。 「驚いちゃった。証拠はないわよ、ないけど、見るからに、さゆみさんのもらったメモ用紙よ!」 私は「だとしたら!」と、かなり早口に言って、深呼吸した。「それなら辻上君って可能性が本当にあるっ て……」

「私としてはしゃくだけど。可能性大かもね」と、由季は本当に敵対しそうな声で言った。 私は「私は誰にも言わなきゃよかったんだわ」と自分に言っていた。メモのことは素直に受け止めていれ ば良かったのだ。今更後悔しても遅い。きっと悪戯してほくそえんでいる人なんて居ないんだ。

電話の後、私は心の火種がもう抑え様のないバーナーのような勢いになっているのを感じていた。 だめだめ、落ち着けと、言い聞かせても舞い上がろうとする心に掛ける重りが見当たらない。いったいどう やって抑えたらいいのだろう。こんなにも心が一人歩きするとは思っても見なかった。

辻上君が私に気があったら、あの形しかない。人気タレントが不釣合いな子に思いがあっても伝えるに は勇気がいるし、失敗すると私がからかわれていると勘違いしかねない。あのぶっきらぼうなメモの切れ端は 辻上君らしいかもしれない。

自分の中の醒めた部分がしきりに抑え込もうとしているのが分かる。この苦痛と湧き上がる喜びが恋愛 の呪縛というものに違いないと思った。解放されたいような束縛されたいような気分。遠くからお気に入りの 男子を観ている感覚とはまるで違う息苦しさだ。

こうなったら、実際に確かめたいと思うけど、そんなこと臆病者の私にできるわけない。もはや間違いだっ たということは許されない運びだった。本人に訊く以外、確実な方法はないと分かっているけど、絶対にで きない。 ―― よく、女から告白するということを聞きますけど、そのときはそんな女性の気が知れませんでした。そんな 軽いものじゃないと思っていたのです。

次の日からの長い長い三日間、私はただ、辻上君しか見えない状態になっていました。目がハート型 になってたんでしょうね。勉強も遊びも友達との会話も覚束ないのでした。恋する女は美しくなるってことは よく分かります。自分が女性であることを色濃く自覚して自然と磨きを掛けようとします。

私の場合、メモの『はっとする素敵な笑顔』もこわばってしまって、身のこなしも話し方も別人のようにぎこ ちなくなっていたと思います。

史子が「体調でも悪いの?」と、本気で心配してくれるくらい変になっていました。 辻上君と視線が交錯することもしばしばあって、気持ちの昂ぶりはとうに未体験領域に突入していて、 何をするにも高所恐怖症で足がすくむようです。確かめなきゃ精神がまいってしまうという焦りが強く芽生え 始めていました。

―― 日曜日は彼を見ることもできない。彼を見られない辛さと彼に見られない辛さは部屋に居ては偲ぶしか ない。

家にこもっていては気が滅入るので、史子を誘ってパソコンのゲームソフトを買いに出た。 史子の家とは1キロ以上離れていても同じ小学校区で、ずっと仲良くしている。由季の家は五十メート ル余りしか離れていないけど、中学校区も違う。でも、由季と史子は今、席が前後同士で、お互いに高 校に入ってすぐにできた友達同士だ。私はさばさばとした人が好きだから、由季の女女した感じがいやで、 仲良くなりたいと思っていなかったけど、史子は由季のことを素敵だと言う。私はさばさばとした性格ではな いけど、自分の煮え切らない面をいやだと思う裏返しが友達の好みに出ている。と言っても史子はさばさ ばという感じではなく、ほんわか。由季の作られた淑やかさがどうも気に入らないのに、史子は騙されている とすら思ったくらいだ。

史子はショッピングの道々、由季のことを話し始めた。私は史子のことをこの頃から急速に見直すことに なる。

「浮かない顔してたから、ちょっとだけ話を聞いたの。何だか家の中がごたごたしているみたいよ。何がどう って言ってくれなかったけどね。このまえ、由季の家に遊びに行ったじゃない」

「そのときはお母さんがまめな人って印象があったわよ。手作りチョコプリン作ってくれたし」と、私は思った とおり言った。

「チョコプリン作るから、まめだとは言えない。トイレの中には近所で調達した花が生けてあったり、電話カ バーは手作りのフリル付。まめまめしいけど、夕食はどう?病弱なお母さんは毎日のそれができない。由季 が殆ど作ることになる」

「やさしいお母さんだからいいじゃない。うちのお母さんなんかブティックのことしか頭にないし。節子さんに いろいろ任せてるもの。夕食はたまーに作ってはメンツ保ってるけど」

節子さんとは十年程勤めてくれている家政婦さんで、私にとっては第2の母。 「さゆみのお母さんは仕事があるんだから。――おかしいと思ったのは、本箱の引き戸の縁が真っ白だっ た」

「変なとこ見てるのね、埃?」 「人形ケースの上にも埃があった。あれのおかげでせっかくの人形が台無し。絨毯にある猫の毛も普通じ ゃぁない。そういうことがないなら、まめなお母さんと言えるけどね」

ホンワカ史子なだけに、こういうときの観察力にはうなってしまう。 「さゆみの家はきれいに整ってたわ。でも、由季の家には問題があると思った。私と同じように由季のお 父さんが感じていたら、仲良く暮らせるかしら。お母さんのすることを勘違いしていると思う。悪いけど、精神 年齢錯誤って感じ」

史子が人のことを悪く言うのは極めて珍しい。問題を感じている史子の言うことはもっともだと思うしかな かった。史子は続けた。

「私は友達になってすぐに、由季の家に一回呼ばれたことがあったの。お母さんがジュースを出してくれた んだけど、コップに埃がついてた。それでも構わずに注がれる。でも、そのコップは手作りのコースターに乗っ ている。お母さんが心掛けるべきはコースターの可愛らしさじゃなくて、よりきれいなコップなのよ。そういうこと が由季との関係も、ご主人との関係も悪くしているかもしれないと思ったの。ごたごたした居心地の悪い家 って由季は打ち明けたけど、ちょっと分かるような気がする」

「由季は何を言ったの?史子に」 「それだけ。浮かない顔してたから、何かあったのか聞いたら、ごたごたしてるってそれだけ言った」 史子は天才的勘をもつ恐ろしい少女であることを今更知った。そうか、私がむしゃくしゃしたり、おしゃべり したいとき、自慢気な時や卑屈なとき、うまく対応してくれていたのだ。だから無二の親友と思える大切な 存在になっていた。私は扱いやすい都合のいい癒し系の友達だと思っていたのに、実は数枚上手から私 を見下ろして可愛がってくれていたのかもしれない。

「私はまた、由季が炊きつけておいて、辻上君のこと、焼いてるのかと思ったじゃない」 「あれ?それもあるでしょ、もちろん」 「冗談言わないでよ」と、私はそのときは流していた。

ゲームソフトは買ったけど、史子に薦められるがままに買ったし、そもそも気晴らしが目的だったため、史 子に楽しんでもらおうと思って貸した。どうせゲームなんて手につかない。

私の頭の中はただ、外を歩いている間に気持ちの整理をしていた。そして、日曜日の夜中になって、よ うやく決心した。やらなきゃ、もう、苦しんでなんかいられない。

決心は小さな揺らぎにもめげず、月曜日の放課後になっても幸い、変わらなかった。私にも決心を揺る がさない勇気と強さがあったのだと感心した。

私は日曜日の買い物歩きのうちにMIDORIの縦長メモを手に入れていた。それには深夜まで考え抜い て書いた短い文が書かれていた。

月曜日の放課後遅くまで私は図書室の隅で時間をつぶした。ビタミンの効力について書いてある本の 同じ行を何度も読みながら、それでいてまったく頭に入らない状況で、白い時が過ぎた。

学校の施錠時刻10分前には校舎から出ることになっている。その時間だと忘れ物をあわてて教室に 取りに来る人が居るかもしれないと思い、そのさらに10分前、暗くなり始めた薄気味悪い教室に入った。 教室の後ろには碁盤目に区切られた扉付のロッカーがある。基本的に机の中や周囲にカバンなどを置 くことが禁止されていて、後ろの鍵なしロッカーに入れることになっていた。私は探すことなく、彼のロッカーの 位置まで駆け寄ると、『辻上』の表示を確認して、メモを素早く入れた。胸の高鳴りに目が回らないように 深呼吸しながら、それでもあわてて教室を出ると、そのまま一目散に走り、校門を駆け出ていた。

―― 今でも思い出せます。考えた割には短いけど、確認だけできればいいって思ったの。『あなたですか、私 のこと見てくれるのは。もしそうなら、そうだと言う笑顔を下さい。そうでないと、私は笑顔を忘れてしまいま す』

私なりの賭けでした。もう、確かめずには居られないのでした。煮え切らない状態に耐える方が失うこと より辛い、と、その時は思っていました。

ようやく、私は自ら思いを好きな人に告白する女性の勇気と気持ちが分かったのでした。大変な思いを しているんだと実感して、自分の未発達だった部分に気が付きました。

前日の史子の観察力といい、私には感じられていないことが、まだ、いろいろこの世にはあるのだと思い ました。

「さすがは中山弁護士」という史子の言葉を思い出すと気恥ずかしい。 ―― 次の日の登校は史子と同じバスに乗った。私の動悸をよそに史子はゲームの感想を話していたと思う。 私はうわの空ながら、悟られないように努めた。

強烈な後悔もあったし、実行した勇気をたたえる気持ちが私を揺さぶっていた。史子にも胸の内は打ち 明けられなかった。

メモがお門違いだったとしても、中学生じゃあるまいし、さらし者にはならないだろうと思い込んだ。正直、 勝算があってのことだ。そう、勝算はある。少し前にも辻上君のロッカーにラブレターが入っていたって話はパ ッと水面下で広まったが、はじめから誰も興味を示さなかった。彼には何度もありえることだろうし。メモくら いいつも誰かが入れてるのかもしれない。

私と史子の横を辻上、今井、森永の並びで通り過ぎてゆく。今井君だけ振り返ると 「おはよう」と言った。私がしどろもどろになっている間に、史子だけ 「おはよう」と答えた。 3人はそのままさっさと歩いて行くかと思ったら、辻上君だけちょっと振り返った。私は息を呑んだが、まさ かまだメモは見ていないはずだから笑顔でなくても平気。

「辻上君、振り返ったじゃない、さゆみを見たよ」 「な、何、変な事言ってるのよ」と、私の顔は強張るやら、照れるやら。こんなんでは教室が思いやられ る。今日、この日にはっきりするから、楽になれる。きっと微笑んでくれると強く思った。

実際、その日は微笑を受け止めるべき私が、授業中、顔を上げることすらできなかった。まだまだ臆病者だ。自分から告白できる女性はまさに尊敬すべきだ。私は一般の女性の知りえる苦しみをやっと共有で きたのだと思えた。

自分のぎこちない行動を罵りながらも、全く辻上君を見ることなしに授業を終わった私は、クラブへ向か うべく、いつものとおりせっせと身支度をしていた。何でこんな特別な日に平凡な行動をしているんだと、自 分に幻滅した。

でも、動きは彼にあった。 私は視線を感じてそれを辿った。何と戸口で手招きする辻上君が居た。『えっ、私?』というしぐさで確 認すると、彼は『そうだ』というしぐさを返した。

そのとき、まさに勝ったという思いだった。メモに私の名前は書いてない。それなのに辻上君は私に手招 きしている。それ自体がすでに私に向けられたメモが彼のものだと物語っている。彼の身に覚えがあるから、 名無しでも私だと分かるのだ。

それでも、私は不安気な顔で彼に近付いたと思う。彼はどんどん歩いてゆき、外まで出てしまった。とり あえず、彼は人がすぐそばに居ないところまで適当に歩いていった様だ。私が追いつくのを待っている彼の 顔は真顔で、ちょっと気になった。

近付くと、彼の手にメモが握られているのに気が付き、顔から火が出る思いがした。やっぱりメモのこと だ。そして、メモが私からだと分かるのは彼だけだ。

「君が入れたの?」と彼は言う。顔がやはり真顔で怖い。私は小さく何度か首を縦に振っていた。 「やっぱり、そうなのか」と、彼は冷静で微笑まない。 「何か勘違いしてるよ君」と、イライラしたような口調だ。 『え?』と私は声にならない。 「僕が君にちょっかい出していると思われるのは心外なんだよ」と、今度は怒りすらこもっている。 何か言いたいことをストレートに言ってない感じの小さな時間が過ぎた。 「先週は気持ち悪い目でちらちら見てたと思ったら、――なぜ俺がお前を見てなきゃなんないんだよ」 私は期待とは別のほうへぐいっと引っ張られて突き落とされたようなショックを受けながらも、顔に表情を 出すことすら忘れていた。

また、小さな時間が過ぎると、彼はメモをつき返して 「暗いよお前、デブも治せ!」と言い放って足早に去って行く。 私は問題を整理する前にとりあえず、校舎まで駆け寄って、壁にもたれかかって深呼吸してみた。で も、すぐに涙が出始めたので、さらに問題の整理を後回しにしてハンカチで拭きながら裏門から駆け出して いた。

―― 問題の整理は自然と始まりました。 とても傷ついていることの原因は暗いデブという言葉でした。暗いという印象はたしかにあったと自覚して います。考える時間が長くて優柔不断で、速い会話が苦手でもあるし、最近の私は女性を無意識にも 捨てていたところがあり、普通の女子高生のなかに溶け込んでいなかったようです。でも、言葉としてぶつけ られるほど暗かったとはショックです。

肥っていることは一目瞭然で、承知していたことです。でも、中学2年頃からのことで、まだちゃんと受け 入れていなかったのでしょうか。割り切れないままだから、女を捨てる意識が先行していたのでしょう。自分 の身が人目にどう見えているかも疑わしいまま、憧れの辻上君に宣告されて傷つきました。

そのとき、私は体質だからどうしようもないと思ったものです。努力の仕様がないことを卑下するなんてひ どいと、思いつつも、彼を憎むより、我が身を憎みました。初めてデブと冗談ではなく真っ正直に言われまし た。これほど傷つくものかとあきれるほど涙がこみ上げてきました。

―― 気が付くと、いつもとは違う道をどんどん歩いていた。バス通りの筋違いを家を目指して歩き、ふと、本屋 の前で立ち止まった。

整理しなきゃ大変なことになるという予感が私を本屋のなかに招いた。少しでも落ち着いて現実を冷静 に受け入れないと感情につぶされるという恐怖があった。週刊誌を手に、後でゆっくり傷つくことにして、事 態の消化に務めた。

もはや好意すらもてないと思う私は、それでも辻上君への憧れを惰性のように捨てられない。でも、憎 い。私が罵られるのはなぜだろう。あの人こそ勘違いだ。私は好意を持っていたのに、何も彼に対して悪い ことをしたわけじゃない。いやなら、ごめんと一言あってお断りしてくれればいい。そもそも不釣合いは承知し ていたのだから。あそこまで言うのは男らしいとは言わない。怒りが強まる前にそのことは考えないようにし た。

あの手招きはなぜ?なぜ私だとわかったの?MIDORIのメモ用紙を買ったのは史子が知っている。それ は結びつき様がない。教室は本当に狭い世界だと思った。

辻上君の苛立ちは何だろう。あんな人じゃないはずだ。何か迷惑なことが起こったのか。第3者からの情 報がゆがめられて届いているのだろうか。

じっとしていることが苦しくなり始めて、本屋を出て、がむしゃらに歩き始めた。 自分の部屋に入ってしまったら気が滅入って思考放棄になりそうで、なんとか気晴らしをしてカモフラー ジュできる状態で帰宅する必要があった。

いつもの公園の近くまで来ると、歩道橋を上った。上から見る大通りは嫌な排気ガスの工場のように見 えて気休めにもならない。

飛び降りて車に撥ねられると即死だろう。暗いデブで済みませんでしたと遺書を残したら、辻上君を懲 らしめることにはなるだろう。

幸い、感情の殆どは悲しみよりも怒りだ。そういう行動は取れない。私は下をのぞきながら、それをする にもロッカーにメモを入れる何百倍もの勇気が必要だと思った。そう思うことで、私に起こったことのちっぽけ さを受け入れようとした。私の人生の第一目標は怒りに牙をむきつつあることを消化することになっていた。

いつも通る公園に入るとすぐに電話ボックスに入った。私は結局、夕暮れまでかけて公園内まで帰って 来ていたのだ。

私は思い余って言葉に詰まらぬようにメモ用紙に言うべきことを書いていた。由季はやはり帰宅してい た。

「珍しい、さゆみさんからの電話なんて」 「訊きたいことがあるの。今井君のこと」 「今井君?」 「あなた、やっぱり、私の名前、言ったんじゃないの?」 由季はちょっと言葉に詰まった。「…なにかあったの?今井君がそう言ったの?」 「やっぱり言ったのね」 「……」 「私、辻上君に嫌われたみたい」 「どうしたの?何があったの?」私は答えずに電話を切った。 由季は私のロッカーにあったメモのことを調べるふりして、実は辻上君の情報を知るために今井君に私の 名前を言ってしまったのだ。そこしか私と辻上君がつながる接点はない。私はこみ上げてくる涙を拭きつつ 歩いた。

いつものベンチに暇そうに掛けている中年男が 「君」と、小さく声をかけた。いったい何時から何時までベンチタイムなんだろう。私が悩める美少女に見 えたはずはない。優しい男性の宿命のように声が出てしまったのか。私は無視してしまったが、初めて好意 が持てた。

家に帰り着いた頃、馬鹿な私はようやく、気が付き始めた。私は由季の計略におちて手の込んだ虐め に遭ったのだ。私のロッカーのメモからして由季のしわざだとしたら。怒りは震えに変わり、治まらなくなった。 殺意さえ覚える嫌がらせだ。

MIDORIの縦型リングメモに着目したのも、今井君に訊いたと言うことも怪しい。由季が辻上君に私の 名前を流したとも考えられる。私はできるだけ落ち着こうと努力した。気を抜くと怒りが噴火するにちがいな い。

私は無意識に史子に電話していた。 「MIDORIのメモを辻上君が使っていそうだということも嘘だと思うの。私をのぼせさせておいてどうするつ もりだったのかしら」

「本当になんでもないの?さゆみ。大丈夫?」 「大丈夫だから電話できてるのよ」 「それならいいけど。由季にはなにかこわいものがあったよ、今思えば。家中がごたごたしていてそこから 逃げたいみたいなこと言ってたもの」

「それと私と何か関係あるの?」 「辻上君のこと、好きだったのよ」 「知ってるわ。私とはそのことだけは気が合ってたからね」 「ちがうの。さゆみのは他の何人もが認めるように、辻上君はカッコよくて美形だからキラキラ見えるっても のでしょ。由季のは違ってた。怖いくらい辻上君のこといつも気にしてる。ストーカーにならなきゃいいけどって ね」

「そうなの?」と言いつつ、史子が言うのならそうに違いないと思った。私には由季のそういうことすら見え ていなかったのか。

「だとしても、史子……」 「そこから先は分からないわ」 でも、私はこう思った。由季は辻上君を自分のものにできないストレスで誰かを苦しめて自分を慰めよう とした。ライバルに仕立てて、蹴落とされるのを見たかった。私が一人で舞い上がっていながら全く進展しな い恋。私がじりじり苦しむ姿を横目で見ていたかった。

私はメモを入れたことを史子にも話していない。でも、この筋の通った話は史子に理解してもらえた。私 が予想外に苛立って、メモを入れる行動に出ると由季は予想していなかったのだろう。こういう理屈が固ま ると、震えが止まらないほど怒りが込み上げ、由季を絶対に許せなかった。この震えを止めるためには自 分のための癒しが必要だった。鬱憤晴らしには鬱憤晴らしよ。陰湿には陰湿よ。私の怒りは辻上君からの 罵声や、おどおどしながら期待していた自分のいじらしさなどがすべて含まれていた。

 

ダイエットでも消化できないこと

日暮れ時、私の怒りは全く治まることなく、癒すための行動が実行されました。冒頭に書きましたとお り、私は由季の愛猫を奪おうとしました。崖下の道路向かって投げるなんて、無意味な行動が鬱憤晴ら しになどなっていないことを自覚して、激しい自己嫌悪に陥ったのでした。由季をひっぱたけばいいのに、そ んな勇気は全然無くて、猫に八つ当たりして一人相撲とって。

私の行いはピアノ騒音殺人事件と同じ、勇気の無い人間が、堪忍袋の緒が切れて犯罪的行動に出 る。そう、犯罪者の心を持っていました。

そして、その心は私に襲い掛かり、支配し、私を別人のように変えようとしていたのです。鈍感な私から 敏感な私に変わる過程が始まったのです。信じていい事と、いけないことを区別する思考や、自分に対す る思いすべてを呑み込んで、溶かす。私がそこから再生する過程です。

私が実際に肥っている事を受け入れる過程。 私が猫に殺意を抱くことしかできない臆病者である事を受け入れる過程。 良心がゆるぎない高まいなものであることに気が付く過程。 心はいじめられっこのままの発想しかできなかったことを受け入れる過程。 女であったことを思い知る過程。 ―― 家に帰ると、節子さんが夕食の準備を始めていた。私はそのおいしそうな天ぷらねたを見て、きっと食べ ることで嫌なことは忘れられると思った。そのとき、あまりにもあっさりとそう考えられたことに、ハッとするもの があった。私は愚かにもそのとき初めて、私なりのストレスを食べることで解消していたと知ったのだ。本当は 体質が成長期に急激に変化して肥るようになったなんて思い込みに過ぎなかったのかと恐れた。

いつものように父はおそく帰るということで、私と母と妹で食卓を囲んだ。いつものように節子さんはおすそ 分けを少しもらって帰った。余談だけど、私がもの心ついたときから、母は小さな服屋を経営してて、仕事 で遅くなるために、節子さんを雇い、家事を任せていた。儲かってはいないけど、それなりに長く続いている から、仕事として面白いようだった。そういうことで、私も妹もなかなか母との会話の時間が持てなかった。そ れは家にとって、子供にとっていいことではないと薄々思っていた私は、中学までは、妹のために早く帰って いた。それをあたりまえだと思いはじめた頃、母は早目に帰ってくることが増えた。そうなると、確かに会話が できて、話すことでの鬱憤晴らしや、少しでも大人の世界を話してもらえることが、面白いと分かった。私は 母のファインプレイだと思った。

ふと、そういうことを考えていると、娘の私は何してるんだと、現実に帰ったときに、不良化していると思え て、またもや良心の呵責に苛まれた。

後に思えば、天ぷらを食べれば治るストレスではないことくらい明白だ。私はまさに脱皮の苦しみなど知 る由も無い甘い子供だったのだ。

さて、食卓に着いて美味しそうな天ぷらを見て、美味しそうと思いながらも食べたいと思わないことに気 付いた。ストレスだらけなのに食欲が湧いてこないなんて。

「どうしたの?何か食べたの?」と、妹が覗き込む。 「食欲ないの。お腹すいてるはずなんだけど」 「珍しいこともあるものね」と、母は気にもとめずに言い、「妊娠でもしたの?」と言って笑っている。 「自分でもわからない。気分が悪いわけじゃないし。想像でも妊娠するらしいしね」と、私も笑って見せ る。

でも、分かっていた。私の頭のなかに共鳴して止まない辻上君の声。『デブも治せ』の声。あの声に金縛 りにあったように食べ物に手が出ない。不思議だけど昨日はちゃんと食べられた。そう言えば食後、吐き気 があったけど、苦しかったわけじゃない。私は肥えた体を思っていたよりはるかに気にしていて、傷つきやすく なっていた。辻上君の声を心に留めておく必要なんて無い。涙とともに洗い流したつもりだった。でも、心に 染み付いて、深い傷口から血が滴り続けていたのだと実感した。

結局、少しのご飯とオレンジジュースだけで夕食は終わった。 ―― これが衰弱の始まりでした。 ―― 私は次の日の朝食も取らずに、ふらつく状態で登校した。授業の内容もほとんど上の空で自分のなか に血が通ってない様だった。脳は鉛と化したようで、感情すら湧かない。にもかかわらず、食欲は相変わら ず起こらず、節子さんが作ったお昼の弁当を殆ど残してしまった。

由季はその日、午前中に早退した。私は何だかホッとした。彼女に無神経に話し掛けられるのには堪 えられそうになかった。私が今日もクラブを休むと言うと、史子も一緒に帰ると言い出した。弁当を残したこ とがよっぽど不思議だったのか、「大丈夫?」と、史子は私の顔色を観察した。

「何だか疲れちゃった。食欲ないし」 「由季の話をしても大丈夫かしら?」 史子が私と一緒に帰りたがったのは由季の話があったからだった。史子はバス停につくと自然とヒソヒソ 話になった。

「今日、由季と登校したのよ。昨日、何か話したげにしてたから。私も聞いてあげようと思ったからね」と 史子は言う。

「さゆみのことは仲間を作りたかったみたいだって」 私はわからずに、聞き返そうとしたが、その気力すら起こらない。ただ、怒りがぶり返さないようにカバンを 握り締めた。

「自分でもわからないうちに、実らない恋に悩む人を増やしたかったっていうか。もっと言うと、立ち直り方 も知りたかったって」

私は由季の顔すら思い浮かべたくなかった。ただ、うつむいて息が荒くなるのを堪えた。 「辻上君にはね、好きな人が居るのよって言った。ずっと辛そうな顔してたわ」 「彼はアイドルでよかった。彼女が居ようとどうでもよかった。もっと言えば好きでもなかった」と、私はやっと 言えた。

「だから、私も振られちゃったのよって」 私は由季の言葉を聞く精神状態でなくなっていた。早く帰り着きたい一心だった。 「あーあ、もう、なにもかも嫌になったとか。すごく落ち込んでるの」と言うと、史子は本当に由季のことを 心配げだった。

「そうかぁ、史子は由季にとっても愚痴を言える相手だったのね」 「謝っといてって言ってたよ」 「そんなこと史子にたのむなんて」 「まぁ、それは私のすることじゃないわ。でも、由季の状況を言っておきたいの。由季のお母さん、通院日 にも病院に行かないようなの」

「ひどいの?」 「どうやら、お母さんは病院代を節約しようとしているのよ。それが由季には重荷で、学費のせいかと思っ ているの。お父さんが背任行為で解雇されようとして裁判沙汰になってて、そのこと、家族誰も五日前ま で知らなかった」

私は遠い世界のことを聞かされたような気がしていた。 「背任って、何したの?」 「由季が言ったのは、お父さんが元上司の着服行為を知ってて、会社に報告しなかったことが、共犯の 容疑につながってるらしいけど」

「お仕事何だった?聞いたことあったかなぁ」 「私は昨日きいたのが初めて。電気工事関係の商社らしい」 バスが来ると、乗り込んだ。二人とも並んで吊革を持った。

「でね、仕事はやめるけど、退職金がもらえない可能性があるって」 「そういう話って、何て慰めていいやら難しいわね」 「由季はお母さんに病院に行くように言いたいけど、事情を解決できないでしょ。高校辞めようと思い始 めてるの」

私は由季への憎しみやここ数日の流れが束の間、つまらないものに思えた。憎しみが消えるわけではな い。ただ、それだけじゃない色々な問題の一端に過ぎないのかと思えた。

「由季が晩御飯を作ろうとすると、お母さんが無理してやろうとする。ただ、寝てるだけのときはご免と謝 る。調子がいいときは家事ではなく、編物をする。それも、編んだものを売りたいとか言うらしいけど、実際 には100均ショップで間に合うものばかり。お父さんも愚痴りたい様だけど、病人相手じゃね」

「史子はすごい」と、まず思ったとおり口にした。「由季がそういうことまで話すなんて。信頼置ける人なの ね」

「私のことはいいの。でも、由季のことは私からお願いする。さゆみの事件は由季からはちゃんと聞けてな いし、全部話してくれたのかもわからないけど、辻上君のことで由季を刺激しないでほしいの。さゆみだか ら、いつものように冷静に……わかってくれるわね」史子が私じゃなく由季の心配をしているのが妬けた。で も、私は史子の願いならきこうと思った。

「冷静と言うより、とても疲れてる感じだから、とりあえず、大丈夫よ」 「そうね、ほんとに今日は疲れてるみたい」と、史子は顔色を見ている。 私は許さなければいけないのかと一瞬思った。放課後、誰もいない教室から出てきた辻上君が何をし ていたかと言うことが、由季には気になって仕方がなかった。ストーカーとはそういうものかもしれない。

「史子、辻上君と由季の間に何かあったと思う?」 「よかった。さゆみの頭がまだまわっていて。まぁ、そのことを由季に訊くのはずっとあとにしよう」 私の降りるバス停が近づいてきたとき、史子は思い出したように 「猫が」と言った。 「え?」と、私はトギマギしていた。 「由季の猫が居なくなったって言ってた」 「ええ?いつから」私は嫌でも呼吸がぎこちなくなっていった。 「夜、帰ってこなかったし、朝も見かけなかったって。お父さんが猫に食わせる飯はないとか言ってて、まる でお互いに溜まったものの吐き出し合いみたいな大喧嘩になったって。いつもおとなしいお父さんが実力行 使……どこかに捨ててきたのよきっと、とか言ってたけど、そんなことするものなのかなぁ。それって本当なら、 八つ当たりよね」

私はただ、早くバスが止まることを祈った。 私はバスが止まると、ぎこちなくバイバイを言って。降りていった。 公園に入ると、一息ついた。脂汗が吹き出ている。 居なくなった。死んでなかったら帰るだろう。 まさか、あんなことで死ぬんだろうか。下の道まで落ちて車にでも轢かれたのか? 気が付いたら花壇の端にしゃがみこんでいた。 歩かなきゃ、考えずに、歩かなきゃ。 ゆっくり立ち上がると、とにかく、考えないように勤めて、歩くことに専念した。 自分でも滑稽なくらいに動揺していた。考えないことにするのは難しくはなかった。体から力が抜けていた こともあって、考える力が失せていた。公園も半ばまで来ると、いつもの男が居るかと思いきや、ベンチにか けているのは同じ高校の制服だった。 「由季さん」と、思わずつぶやいた。 その声よりも気配に彼女は気付いて、私を見た。私は怒りを思い出そうとしていた。私は被害者だと思 うように努めた。

「さゆみさん」と、由季は立ち上がって私を見る。私は話す気はないというように目を逸らして進んでゆく。

「ごめんなさいね」と、すれ違いざまに由季は言った。 「私、今、とても気分が悪いの」と、正直な体調を訴えて、去ろうとした。 「初めから、私が考えてしたことじゃないのよ。それだけは信じて」 「また、聞くから、今日は、このまま帰る」と、私は由季を見ないで言うと、「早退したのに……待ってた の?」と訊いていた。

「そうかもしれない」 「猫、居なくなったの?」と、私は訊いていた。がたがた震えていたかもしれない。 「うん、きのうの夜から、猫も、お父さんも帰らない……猫連れて出てったのよきっと」 私は由季を見ていないけど、涙声になっているのがわかった。私にとっても嫌な答えだった。 「ここに座ってたでしょ、最近、お父さん」 「そうなの、由季のお父さんだったの。また話そう。今日はだめ」と、言いつつも、私は猫のことで気が動 転していたから驚く余裕はなく、そのまま立ち去ってしまった。

―― 犯罪者の気持ちとはこういうものなのでしょうか。自分の良心に自分がいじめられる感じ。どんな言い訳 も跳ね除けて純粋な立場から私の行いをとがめます。猫が事故に遭ったとしても、転落しただけで死んで しまったとしても、もう取り返しはつかないのだから、苦しむのはやめよう。というわけにはゆきません。良心は 誰の意思でもなく、自分の中にあるにもかかわらず、私を苦しめる。これが罪を重ねないための効果のため だけに神様から遣わされた力なんでしょうか。

史子にも打ち明けられない苦しみと陰湿な行いの事実。こんなはずじゃなかったのです。もっと由季が 悲しむことを望まなくてはならなかったはずです。そのための、そう、私の癒しのための行いだったはずでした。 私はそのまま自分の部屋に帰りつくのが嫌で、本当は公園に留まっていたかったのです。あそこで私は 由季への憎しみを確認して、癒しを求めたし、あそこで辻上君へのメモを書いたし。滑稽で情けない陰湿 な私の住処のようで、私は自分の部屋に暖かく迎えられるような気がしませんでした。ああ、由季のお父さ んは一番居たい所に居たのかもしれません。後々、つくづくそう思うことになりました。

そして私はすでにどうしようもなく悪化していたのです。私には何が起こったのかまったくわっていませんで したが、すでに発病していたのでした。

その日も夕食はジュースしか摂りませんでした。倒れそうになりながらも食欲はまったくなく、吐いてしまう 恐怖が邪魔していました。家族の心配をよそに、自室に閉じこもると、入浴もせずに眠ってしまおうとしまし た。寝ているときが一番安心できるような気がして、無理やりベッドに入ったのです。自室ではどんな顔をし てもマナーに反しない。だから、安心して苦しめる。そういう環境が嫌でした。一人になるのが嫌でした。

―― 眠ったり覚めたりしているうちに突然おなかがすいたと思ってキッチンへ行くと、母がうどんを作ってくれた。 私は本当においしいと思って食べた。おなかいっぱいになる前に食欲がなくなったと思ったら、唐突に眠くな ってすぐさまベッドになだれ込んだ。

それから何時間かして目を覚ますと、めまいがするような気分の悪さが襲っていた。起き上がる気力が ないまま、耐えていても収まらず、午前5時の時計を睨みながら起き上がった。すると、それは胃のむかつ きだった。なんとかトイレまでたどり着くと、そこで、せっかく胃に入れたものを戻してしまっていた。何かがおか しい。と、私は遅ればせながら思い始めた。病気か?だとすると覚えのある感冒の症状とは違うようだ。そ のうち熱でも出るのか、嫌なことがあったのに、体まで嫌なことに加担するのかとげんなりした。まだ私には体 の中に心が宿っていることをちゃんと認識していなかった。だから、心と体が連動するなんて思っていなかっ た。

朝を迎えた。 私はあたりまえのように支度をして、制服を着込んだ。体調のことは誰にも言わず、あたりまえのように家 を出ると、体の重さに驚いた。公園を歩きながら病気なのかと悩み始めていた。これほど体が重く、歩くのがつらいことは初めてだ。改めて自分の体重を恨んでいたが、そう思えば歩く気力すら失せてくる。この調 子ではとてもまともに学校に行けないと思った私は、学校に電話すると、担任に遅れる旨を伝えた。そのと きでも、まだちゃんと登校していつもの生活ができると信じていた。心因性の疾病など理解できてなかった 私は、精神的に参ってもそれに耐えれば、正常で居られると思っていた。

公園を突っ切ってバス停に向かう途中、ビルの一階の喫茶店の前でボーっと立っていた。そこには暗め の艶のある壁に私がゆがんで映っていた。それはやぼったい笑顔なんて出そうもない疲れた女の子だった。 気力すら出ない心の傷を負ったのか。辻上君のことも由季のことも肥ってることもどうでもいい。そう、猫 のこともいまさらどう思っても仕方がない。と、思ってみた。まだ16歳だ。やっと失恋の味のようなものも味わ った。片思いをあきらめるのとはわけが違う。こういうことが体調の原因になってしまうものなのだろうか。

―― 歩き始めようとしたそのとき、あれが起こったのです。 ダーンという音とともに目の前を何かが通りました。上から下へ。私は咄嗟にごみの袋かと思って、どこか ら落としたのだと見上げていましたが、それらしい落し主は見当たらず、私は落ちてきたものを見ようとしまし た。

その黒いごみ袋と思しき正体は人間でした。人形ではなく、確かに男の人。その黒っぽい服の男性はま ったく動かず、うつ伏せに顔をこちらに向けて目を閉じていました。飛び降り自殺だと気が付くのに5秒はか かったでしょう。私は近寄ることも、通報することもできずに、呆然としていました。そのうち、人が寄ってき て。警察に通報する人や近づいて見回す人などで、視界からさえぎられて、ようやく、目を逸らすことがで きたのでした。

誰かが私を歩道のすみに寄せてゆくと、全身の力が抜けそうになっていました。そのとき、あの男の人が いつも公園のベンチに掛けていた人だと気がつきました。見覚えのある人の光景だったから動転したんだと 思うと共に、由季のお父さんが亡くなったという思いまでめまぐるしく襲ってきて、私は彼の見えない苦悩の 返り血を全身に浴びたような気がしていました。

わかってもらえるでしょうか?返り血とは彼が抱えていただろう問題が彼から解き放たれて周囲に飛び 散ったイメージなのです。後で思ったことですが、私が辻上君からメモをつき返された日、歩道橋から下を 覗いてたときのことから繋がって、飛び降りた彼が苦悩から解放されたという思いになったようです。

―― 気が付くと、私は病院の長椅子に母より若いだろう女性と座っていた。 「あれ?」と、小声が出ると、隣の女性は私の鞄を手渡した。 「道路脇に連れて行くとすぐに気を失ったのよ。学校には連絡しといたからね、中山さんね?」と言って 彼女は立ち上がる。警察証を見せると、

「学生手帳を見せてもらったからね。とりあえず、診察を受けなさい。ちょっと貧血みたいだし。私もね、 偶然通りかかったものだから。それで、意識はしっかりしてる?」 「はい。すみません」私はぼんやりと見たことを思い出した。 「飛び降りるとこ見たの?」 「いいえ、ごみ袋と思って、上を見たけど、どこからか……」 「いいわ。私は少年課でね、あなたのように学校に行く時間が遅い学生のほうに興味があるの。でも、ど うやらまじめな子のようだし、学校にも遅れるって電話してたみたいね。体調が悪いんならせっかくだから、い ろいろ診てもらったらいいわ。じゃぁ、私はこれで」

私服の婦警さんは立ち上がるとさっさと出て行った。 そこは小さな医院だった。おばあさんが2人居たが、名前を呼ばれたのは私だった。 「びっくりしたでしょう」と、太目の髭の医者が言った。「でも、気を失ったのは別の原因も有りそうだね」 私は何をどこまで話せばいいのか迷っているうちに、ちゃんとした返事すらできなくなっていた。重大な病 気にかかっていたら大変だという恐れから、症状だけきちんと話すべきだと結論付け、医者に対した。

私はようやく自分の体のことにとらわれていて、常識的にすべきことができていないことを反省し始めた。

あの人は同級生のお父さんです。その一言が婦警さんに言えてない。

自分の体のこと、人が落ちてきたことのショックに気がとらわれている。そういう言い訳は自分にできる。で も、猫に結びつくすべての出来事に目をそむけようとしていないかと思うと、ぞっとするものがあった。意識の 中で由季のことは私から切り離されつつあった。

「住所からだと萌生会に近いね、あそこで診てもらって下さい。連絡書書いときますから向こうの受付に 提出してください」

「なにか悪いんですか?」 萌生会病院は家から歩いて7,8分。大きな総合病院へまわされることを不自然に思った私はそうた ずねていた。

「血を吐いてないし、肌も健康だしね。ただ、衰弱は気になります。入院の必要があるかもしれない。ま ぁ、心配するのはよくないから、思いつめずに、すぐに萌生会へ行ってください」

思いつめずにとはいい指摘かもしれない。思いつめているようなことは言ってないのにそれが分かるのか、 ちょっと心許せる人のように思えた。

忙しいはずの母が車で迎に来てくれ、診察料を払うと、そのまま萌生会へ直行した。学校は休むことに した。最初に内科の検査があった。血液検査、尿検査、聴診などしているうち昼を回ってしまった。その日 も食欲が湧かず、おなかが空いて苦しくなっていた。その日から食べたいと思わないことの苦痛が急激に襲 ってきた。

結果が出るまで家に帰り、夕方を待った。藤木という細い目が印象的な医者は 「内臓疾患でないかもしれない」と言った。確かに薬ももらわないで家に帰った。食べたいと思わないの は自覚している。でも、吐きたいとは思ってない。私はずっと気がかりだった。

夕方、結果を聞きに病院へ行くと、そこでまた問診があった。そこで私は髭の先生が引き合わせたい先 生に合うことになる。

「神経科?」と、つぶやきながら私は待っていた。名前を呼ばれてカーテンの向こうへ入ってゆくと、たぶん 母と同年配の、それでいて若々しく見える女性が掛けていた。

「はじめまして、小阪です」 「あ、中山です」と、私は促されるままに丸い椅子に掛ける。 「そんなにわるくないんだから、緊張しないで」と、笑うから、私も微笑んでしまう。 「食べないのは吐くのが怖いのね?ほかに何か理由はないの?」 「はぁ……」脳裏を辻上君やミンのことがめぐり、返事ができない。 小阪先生はあらかじめ私が待合中に書かされていた質問表をじっと見ていた。しばらく待っても私が何 も言えずに居ると

「理由が自分でもわからないの?」と、言う。 「なぜ突然、吐くようになったのか……」と、私はとぼけてしまった。実際、いろいろあったはずなのに、それ は私の心に起こったことで、病の原因にはならないと、そのときまだ心が体の臓器全てに結びついていると は思ってなかった。先生は質問書に書いてある主に好きな友達がいるかとか、教師がどうかとか学校関係 のことや生活のことについて一通り確認した。私は今思えば、全く警戒しているかのようにありのままを言っ ていなかったと思う。

「私はどう見える?どんな人だと思う?」と、唐突な質問に私は少し考えた。 「頭がよさそうで、美人です」 「おべんちゃら言っても治るわけじゃないのよ」と、微笑んでいる。 ちょっとムッとして「うそじゃないです」と言う。 「紹介してくれた熊田医院の熊田先生はどう思う?」 私が「笑顔がかわいいけど」と言ったところで小阪先生は笑った。「カッコいいとは思いません」 「自分自身のことをどう思う?」 「お澄ましだし、考えて話すからどうしても軽く会話が続かないんです。今の質問が治療に関係あるのかとか詮索してしまいますし」と、彼女を見る。

「中山さん、あなたこそ頭がよさそうで、チャーミングですよ」 「え?あ、そんなことないです」 「自分のことを話すときは美人とかカッコいいとか言わないけど、自分で思ってるよりずっと外見にこだわっ て人を見ているでしょ。それは自分の外見にもこだわっているってことよ。――チャーミングですよ、本当に。 私がそう思うことにうそはないわ。証明書がないと信じないのかしら?」

「いえ、わたしはこんなですから……」 「こういう曖昧なことっていっぱいあるのよ。人への思いも、自分への思いも、人からの見え方も、もちろ ん、体の調子もね。はっきりさせることと、はっきりしてるはずだと思い込むことは別よ」

「はぁ……」私はそのとき、意味がわかっていなかった。 「症状が出るきっかけを話してくれないから、私も詮索しなくちゃね。知ってると思うけど、催眠術って治 療法もあるけどね」

私はドキッとした。そしてそれを小阪先生に感じ取られたと思う。だから、「思い当たるようなこと、あるん じゃないの?」と言えたのだと思う。

「吐く病気にかかってるんじゃなくて、食べてはいけないと思っているのよ。胃はさゆみさんが思っていること に従うから、正直に吐き出そうとしてしまう。いわゆる拒食症ですね」と、カルテに何か書いている。

「あなたの感情に近い部分が食べたくないと思ってるのに、意識はそれに気が付いてないのかもね」 私は自分の体型のことを言う必要があるんだなと思って「私は肥ってますから、食べたくないです」と言っ ていた。それは自分の中でも確認していなかったことで、言ってしまってから、我ながらそうだったんだと思え た。

「生きるために、生活するために食べるのは必要よ。あなたも生活しなきゃいけない」ちょっと笑って顔を 近付けて小声で

「今、悩みがありますか?」と言う。 私は返事に困った。中学のとき『悩んでいること』という題で作文を書かされたとき、結局書けなかった。 日頃、いろいろ悩んでいるつもりだった。改めて私には悩みなんか無いのだと思い知った。嫌なことはあっ た。でも、悩みがあるかと訊かれるとやっぱりすんなり答える言葉が無い。

「ないのね?」 間違ったことは言いたくないから考えないとしゃべられない自分がよく分かる。でも、自分に正直に話せと 言われている。それがわかった。考えがまとまってから一気に史子に話し、主張するのとはちがうパターン だ。即答しない私の答えを先生は待っている。即答すべきなのだ。たぶん私の常識で。

「参ってしまってるけど、悩みは無いと思います」と、私は真顔で答えていた。 「わかった」と、小阪先生は何かカルテに書き始めた。きっと「ない」とは書いてないんだと思った。それくら い私には余裕が無かった。私はさすがに猫のことは言えなかった。それを別にしてもデブも直せと言われた のだ。それに暗いらしいのだ。それは悩むべきことじゃないのか?だからこそ私は痛んでいるんじゃなかったか と考えが巡る。

「じゃぁ、あなたのいいところは何?」 悩みからいいところとは極端な考えの転換をさせられたものだ。私には金縛りのように考えることができな かった。

「無口になりましたねぇ。そういうところから治しましょう。大丈夫よ、十分に早期発見だから。長引かな いように治療しますからね」

ようやくあの熊田髭先生が萌生会に行くように言った意味がわかった。そうだったのか、やっぱり私にはこ ういうのが必要だったのかと思った。

「さゆみさん」と、急に笑顔で彼女は言う。「すぐに良くなるわ。だからね、入院しなさい、明日から」 「え!」と、短く呻いた。 「過食はないと書いてるし、急な拒食が始まったばかりなら根深くはないわ。そのかわり、学校へは行けない。実際もう、ちゃんと歩くことも辛いでしょ」

そうか、私はやはり見て分かるようにヨタっているのか。それにしてもよく見ている。 「でも、すぐに、すぐに良くなるわ」 「急ですね」と苦笑いした。 「交通事故に遭って入院するのと同じよ。内科の判断でもある」

 

過程

どう思いますか?他人事とわりきっていいのでしょうか。熊田医院にあの婦警さんの名前と電話番号が 書きおかれていたのを聞いていた私は、一刻も早くと思いながら、結局、その日の午後7時になってようやく 自宅から電話をしました。

「もしもし、少年課の高木さんお願いします」と、私は気持ちを振り切って言いました。『高木さんはもう 帰宅されましたが』と、若い男の声でした。

「私、公園横で起こった飛び降り自殺した人を知っているんです。それを言ってなかったものですから。 ――私の名前ですか?中山さゆみです。――」

でも、すでに身元は明らかになっていたようです。私は何してるんだろうと呆れてしまいます。ただ、自分 の後ろめたさと戦っているうちに情報を発信できなかったなんて。ミンのことがひっかかてるのか、私はそういう 人間だったのか。たぶん、前者だと思いたい。

―― 入院とは別世界に行くようで怖い。特に自分が何にかかっているのかはっきりしないからその恐怖も加算 される。早速、入院することになって、次の日からベッドの生活が始まった。父も詳しい話を聞きたいと病 院について来た。私には食欲が幸いにして乏しかった。もし食べたくて仕方なかったなら苦しく激しい嘔吐 と戦わなければならない。だけど、極少量のお菓子のような食事で、軽い吐き気に目が回る程度で済ん だ。

「歩けなくなるそうだぞ」と、話を聞いた父は病室に寄った。 「もう大分、歩けない。火事でも起こったらまだ走れるんでしょうけど」私は教科書と参考書を脇の本立 てに立てていた。

「でも、すぐに治るそうだ。勉強なんてそこそこでいいぞ、一所懸命、治すことだけ考えろ」 父はことの本質を質問できずにいる。私もこれから整理しなくてはいけないのであって、確かに3人ベッド の病室は悪くないと思った。一人は寂しすぎるし、気がめいる。だからといって側に誰かがつきっきりなら落 ち着いて思いを整理できない。私こそ、あの公園のベンチで物思いにふける余裕が必要だったのだ。

「気持ちが落ち込んでるだけみたい。だから、大丈夫よ」 「そうか」と、普段あまり話をしない父はここでも立ち入ったことを訊かない。私はそれを信用だと思ってい る。きっと無関心というのではなく、私を頭ごなしに信用している人の姿だと思っている。だから、その人を裏 切ることはできない。これから先も父の前ではいい子で居られると思う。

「とても疲れてて、朝から眠たい」と言って、私は寝ることにした。父母がそれぞれの仕事場へ向かうと、 同室のおばさんが

「ごめんねラジオ消すね」と仕切り越しに言う。 「わたしはいいですよ。本当は眠らないほうがいいですから」実際、眠るのはよくないと言われた。食べなく ても本を読み、庭を歩き、ラジオを聞けと言われていた。昼間は窓の日差しをよく見て、いつものように勉 強をするべきだそうだ。

学校では短期試験があり、朝のうちに「お見舞いなんて来るな」と史子に言ってある。 なのに、夕方、早速、訪問者があった。河村由季は病室に入るなり、私を見ると神妙な顔で一礼し た。

「お元気?」という、的外れな挨拶もやっと言った感じだ。私と同じくやつれている。 私はどんな顔をしていいやら分からず、とりあえず被害者の顔を作っていた。私と由季の間に起こったこ とは私に罪なことまでさせてしまった。その罪を詫びなくてはならない。でも、発端は由季のせいだ。まだまだ 整理のつかない私は被害者になろうと決め込むことで混乱やミンのことから逃げた。

「げんきではないけど」と、力なく言った。 ―― そうじゃないでしょ、私はお父さんが亡くなったことで何か一言あるべきだったでしょ。そう思いませんか?

由季が「お元気?」なんていってしまうのは無理もないけど、私の態度は私のことを考えての対応にすぎま せん。

「早いでしょ、もう、お葬式も何もかも終わったのよ」と彼女が言うまで、私は自分の良心と戦っている姿 が見えませんでした。病気のせいなのか、わたしがそういうひとなのか、病室でお葬式の話も何だけど、私か ら言うべきだったと反省しています。

「もう?昨日お通夜?」 「誰も呼んでないから。身内だけで。こんなことになって、学校、辞めることにしたの」 私は被害者でいいのだろうかと思うと、言葉が出ません。 「そこに椅子がある」とやっと言うと、由季はベッド脇の丸椅子を持って、側に座りました。 「ミンはもどった?」と訊きたい。でも、それは由季にとってあまりにも唐突な無意味な質問ですよね。の どまで出かかっているのにそれを言うわけにはゆきません。由季の訪問は悩ましい時間でした。

―― 「ごめんなさいね。まさか体を壊すなんて思っても見なかったことだから、今更、本当に悪いことしたと思っ てる」

「史子ね?私の病気のこと何て説明したの?」 「心因性の拒食症だと聞いたから私。私のせいよね」 「かもしれないけど、由季さんのことかどうか、私にもわかってないし」でも、本当は、ミンであり、辻上君の こと、由季のお父さんの自殺である。私の心が思っていたよりずっと、か弱くてそういう心の乱れに対応し切 れなかったのだ。感情が心の許容を超えたのかもしれないとは小阪先生が回診で言ったこと。きっとそうい うことなのだ。

私はばかばかしくなって涙が出てきた。何の涙かわからないし、許容を超えた反応の一部だからよくわか らなくても仕方がない。

「さゆみさん」と、由季は鬱向いた。「悔しかったでしょ、わたしに弄ばれたと思ってるんでしょ。無理もない わよ。私は意味のないことを一生懸命やって、いろんな人に迷惑かけて、父にも辛くあたって」

由季も泣き始めた。私は割と冷静に涙していた。だから、『意味のないことを一生懸命やって、いろんな 人に迷惑かけて』という言葉は素直に聞き取れた。何を言わんとしているのかすぐには分からなかったが、 私もそうだ!と思った。幾度か心の中で独り言のようにくすぶっていた言葉。

「意味のないことをして心に罪を作って…」このミンのことを後悔する思いの言葉に近いものを由季から 聞いたのだ。

由季が辛くあたったからお父さんが自殺したなんて思いたくはない。絶対に思いたくない。あらゆる条件 はそろっていたかもしれない。でも、ミンが居なくなったことがすべての引き金となって、弾丸が飛ぶ羽目にな ったとしたら。そう思ってやっともやもやと悩んでいた思いのひとつが刃物のように鋭く私に向いているのがわ かった。これだ、この途方もなく怖い考えが私を苦しめている。

「違うの」と、言っていた。何が違うのだろうと、考え直した。頭の回転は明らかに錆付いている。 「悔し涙じゃないの」それ以上は白状できなかった。 「私はさゆみさんだけじゃない、辻上君にも、史子にも、今井君にも迷惑かけたの。私は家を出て独立 したかったの」

全く何を言っているのか由季も混乱しているのだろうか。 「私にとって家を出ることは、手に職つけることでも、キャリアウーマンになることでもないの。そんな道考え たこともなかったし、想像したこともなかった。私は一刻も早く結婚して家を出て、ちゃんとした家庭を作りた いと思ってた」

「結婚」とつぶやく私は何かの告白に圧倒され始めてた。 「私は子供だったのよね。家庭を持って、そこで子供をやり直したいと思ってた。たぶんそう。百点の奥さ んにもきっとなれると思った。そのためならどんな努力だってできる。さゆみさん、私の努力って、結局、普通 では考えられないわがまになってしまった」

私は涙を拭いて聞き入るしかなかった。話の内容は後を追うように、スローモーションのように見えてき た。

「ちゃんとした家庭と言うより、ただ、逃げたいと思ってただけ。家庭のイメージをちゃんと持ってたんじゃな い。何でも努力で乗り越えられると思ってただけ。お兄さんみたいに、高校卒業してさっさと出て行きたかっ た。だけど、私にとって、家を出ることは他の家に入ることだった。お嫁入りするイメージ以外私にはなかっ た」

由季は少し黙った。うつむいて言い訳を考えているのか。 私は「いいのよ、ゆっくり話して」と言っていた。今はミンのことは考えないことにできた。 「お嫁入りの相手はなぜか辻上君だと思った。結婚と結婚する気持ちが本心なのか不安だった。相手 は誰だっていいくらいのはずよ。なのに、私が夢中になったのはクラス一の美形。ね、さゆみさん」

「ん?」 「お母さんのこと、気がついたでしょ。あのひとは体が弱いだけじゃなくて引きこもりがちだし、知恵も遅れ てると思うの」

私は彼女の言っていることが分からず、ぼーっと見返すしかなかった。 「今も少女なの。あのひと」 「どういうこと?」 「女の子の未来はお嫁さん。そのイメージのままなの。お嫁さんになったら終わり。その後はないの。そうい う子供なところが私にも遺伝しているの」 由季は肩を落として息を整えている。 「辻上君になにかしたの?」 「ええ。最初は今井君に気持ちを伝えてもらおうとした」 「結婚したいなんて言ってないでしょ」 「それが非常識なことは頭ではわかる。だから、私には辻上君だけなのって言うしかなかった。自分の気 持ちに追い詰められて堪えられなくて」

幸いにして私にはその追い詰められる気持ちが理解できる女になっていた。 「辛かったのよね」 由季は私の言葉にハッと見上げ、ゆっくり泣き始めた。 「結果が良くないと、今井君を攻めて、八つ当たりした。彼は気持ちの優しい人で、私のショックを受け 入れてくれたけど。私はわかっていながら、どうしようもなくて、私のことを辻上君に悪く言っただの……」

「辻上君のロッカーにラブレターでも入れた?」 「そういうことがあったけど、私じゃない。だから、ショックだった。私でない人がそんなことしたなんて。私は 遅れていると思った。今井君に迷惑かけてる場合じゃなかった。辻上君に誰が近づこうとしているのか気に なった。でもね、もっと気になったのが、辻上君とばったり出会った夕暮れの教室の前。そのときは何も言い 出せなかった自分を呪ったけど、あとでさゆみさんのメモのことがあってからは、気にせずにはいられなかっ た」

「こんな私を相手にするわけないじゃない。彼が」と言いつつ、胸が痛んだ。私はようやく腹を立ててた自 分を思い出した。

「どうしてなの?由季さんは炊きつけたのよ、私を」 「真実を知りたいのはあった。今井君にもメモを見せてみた。で、さゆみさんのロッカーにあったことも言っ た。そのあと、さゆみさんをその気にさせるようなことしたのは分からない。でも、きっと、私の仲間を増やした かったのよ」

「辻上ファンクラブ?」 「私一人が苦しむのが堪えられなかったのよ。同じように苦しむ人が見たかった。そういう馬鹿な子供な のよ、私は」

「信じられない。って言いたいけど、由季さんのおかげで、分かるような気がする。私もね、子供だった」

「もう明日から学校行かないの。甲府に引っ越したら高校に行くかどうか考える。――ここでのことは忘 れて。そして、入院が私のせいなら、どうか許して。謝るしかないの」

怒りは思い出した。でも、それに連動してミンのことがよみがえる。私の苦痛は良心が与える強烈な後 悔だった。

「そうよ、子供だった」と、私は私につぶやいた。 「でしょ、笑ってよ。――お兄さんが帰ってくるの。お母さんはずーっと泣きっぱなしだし。あんなお母さんだ けど、お父さんをとても愛してたと今更分かった。遺書がね、見つかったの。ひたすら家族に謝るだけの手 紙がね。なぜか今、家族3人、しっかりやってゆこうって言い合えた。お父さんが私たちのために苦しんで生 きていたことを、みんな知らないでいたから、それを反省したのかしら。口うるさいだけの不機嫌のかたまりの ような存在だったお父さんがいちばん経済的にも精神的にも建て直しに必死だったのがわかった。背任罪 に問われながらのリストラだから、退職金もなかったのよ。――最後、口論して分かれたままってことが辛い けど」

私はあのベンチの男を思い出した。苦悩する男性がそこに居た。私はいったい病院で何をしているんだ と思う。由季はなよなよした美少女にしか見えてなかった。ベンチの男は幸せな家庭を作られなかった無 念を抱えて死んだのか。私はまるで表面しか見られない馬鹿な子供だ。そう思うことは底なしの拒食に歯 止めをかけるような勇気につながる気がした。たぶん、怒りの成分が癒えたのかもしれなかった。そう思うと、

「ありがとう」と言っていた。 「さゆみさん」 「私が抵抗力がなくて、免疫がなかっただけ。私は史子にえらそうに言ったことがある。いじめられっこは いじめっ子と同じくらい悪い子。お互いに悪い子だったのよ」と、ようやく言うと、突然の疲れに目を閉じて息 を整えた。

「大丈夫?」 私はダメダメをして寝そべってしまうと、天井を見た。 「よく、話してくれたわね。私のことなら全然平気よ。――山梨は富士山が綺麗でしょうね。私がこんな んでなかったら気の利いた台詞、言っちゃうんだけど。疲れちゃってて」

「ごめんなさい。疲れる話で。じゃあ、帰るね。短い間だったけど、この町での高校生活、いい思い出にす るね」

―― 正直、体も気も弱っているせいか、全面的に由季を許していました。 「由季のことお願い」だったか、史子に言われたことを思い出しました。史子は由季が私に許されること で幾らか救われるとわかっていたのだと気が付きました。私の怒りより由季の苦悩を優先的に気遣う史子 のバランス感覚は素敵ですね。

こうなると、余計にミンのことが浮き出てきて、私の罪を良心が苦しめます。こうは思いたくないけど、お父 さんがミンを捨てただのってことで由季が辻上君のことなんかも含めた鬱憤を吐き出したとしたら。だから前 途を見失ったお父さんは思い切ったとしたら。恐ろしくて考えたくないけど、この震えにもしばらく付き合わな きゃいけないと思いました。少なくとも、『口論して分かれたまま』にしてしまったのは私のせいです。

もうひとつ。ミン自身の命を奪ったかもしれないと言うことさえ、考えたくありません。この思いにも悩まされ つづけると覚悟しました。そうして、私は回復するどころかその日も次の日も蜂蜜ジュース以外全く食べられ ませんでした。私の病床を辛く書くことは控えます。あったことだけを書きます。ひたすら衰弱の苦しみを書く 言葉がみつかりませんし。

小阪先生の回診はなぜかこちらから診察室を訪ねることになっていました。悩みが晴れたか訊かれたの で

「はっきりしないんです」と答えました。 「物事ははっきりすべきだなんて思わないでね。はっきりしているはずだと思うのはよくないわよ。実際はは っきりしなくてあたりまえだから。法律の勉強しているの?小六法、本がね、ベッドに積んであったでしょ、教科書以外に。白黒はっきりしないと気がすまない人は、曖昧な自分の心の動きが理解できずに体調まで 乱すのよ。几帳面な人も限度を越えると危険なのよ」

いちいち小阪先生の言うことは私に当てはまります。だから、症状が現れているのでしょうけど。たぶん、 そのとき初めて信頼したい人を感じました。友達も先生も、信頼できるかどうか値踏みする立場で人を見 てきたような気がしました。

それでも私は私に起こった事を話すことはありませんでした。進んで話せる健全なことはない様に思えた から。由季の話を聞いた後はむしろ、私に起こったことは何だったのか取るに足りないことのように思われま した。

―― そうは言っても、4日目、私は立って歩くように言われて廊下に連れ出されたとき、あっさりと辻上君との 間に起こった事を話していた。もちろんミンのことは言えなかった。でも、由季のお父さんの自殺が私の許容 範囲を越えた事件で混乱が起こってたかもしれないと言った。時には人が落ちてくる瞬間的な悪夢を見 た。

「好きな人が居たらそのことが自分のことの全てなんてことはあるわね。でも、何日も付き合ったわけでも ないから、失恋にもならないじゃない」と、小阪先生は窓の外を見ながら言う。廊下の突き当たりは日差し が眩しい。

「はい、ちっぽけなことです。たぶん。でも、亡くなった人のことはちっぽけじゃない」 「風が吹けば桶屋が儲かる。知ってるでしょ。人と人は関係なくして生きてゆけないけど、関係と言うも のがあるんじゃないの。あなたに起こったことは他の人にはわからない。あなただけが清算すること。そのため になにをするかは、また別の話。亡くなった人に起こったことは、それ自体がその人にとっての清算だったの よ。あなたの問題と少しも重ねて考えるべきじゃないと思うけど」

私には先生の言葉が消化できなかった。 「要はあまりいろいろ関係ないことまで取り込んでごちゃごちゃにするなってことですか?」 先生は声を出さずに笑うと、「人との関係とか関連付けとか迷信とかは心と結びついて摂食障害につな がるのよ」と言う。「また、その意気で、いろいろ話して頂戴。話すことは整理することだからね。――今日も 庭を歩くのよ、ゆっくりでいいから」

「あの、生理、来そうにないんです」 「さゆみさんの体が栄養不足なこと知ってるのよ。心配要らない。昼は光を浴びて散歩して疲れて、夜 は考え事せずに眠ることね。夜に勉強はしないこと」

私は重い体を引きずるように、庭へ出ていた。史子は本当に試験中は来ないつもりのようだった。母 や、節子さんや妹が日替わりで看病に来ては元気そうな私を見て安心していた。寂しいものだなと感じて いた。庭を歩くのだって一人じゃつまらなかった。自分の部屋に居るときは詩を書いたりして一人で過ごすこ とは何とも思ってなかった。確かに勉強できないことも学校に行けないこともつらいと思ったけど、いつかちゃ んと食べられる普通の生活ができるようになるのか心細く弱気になった。

今朝の何も出ない嘔吐が今度はいつ襲ってくるのか。こうしている間にも起こりえるのか、そういう不安も あった。先生の言うように疲れれば、夜は眠れて、食欲も湧くのだろうと信じた。

次の日はもっと眠れるようにもっと疲れなきゃいけないと思い込んだ。庭をがんばって歩きすぎたのか、私 は気が遠くなりかけてフラフラしたと思ったら、周囲がぐらぐら揺れた。地震かと思った瞬間、倒れてしまっ た。そうか、倒れるとはこういう事なんだと思った。

そのうち、何人かにかかえられて病院内に入っていくのがわかった。そういう経緯を知りながらも声に出し て言う言葉も見つからなかった。私は力なく

「大丈夫です」と「内科病棟の中山です」だけ言ったと思う。 裏口から入ったところにある長椅子に降ろされ、誰か看護師さんを呼びに行ってくれた。 「大丈夫です」と、言いながらも私は起き上がろうとする気力がなかった。 そのとき、目の前に私の姿が映っていた。アクリル板のような即席の仕切りに長椅子の私が映っている。

これは、とてもちっぽけな、とても、重大な、出来事だった。

私の姿は奇妙に波打っていた。あのときもそうだった。私は咄嗟に「やめてー」声なく叫んで目を閉じた。 「どうした?」と誰かに言われて、私は目を開いた。 「ごめんなさい」私は、勇気をふりしぼって歪んだ私を見た。 あの日、飛び降りがあった日、私は喫茶店の壁に映った歪んだ私を見てた。歪んでいるから醜いんじゃ ない。私は女性として醜いんじゃないかと考えていた。そんなことを思って落ち込んだときに、彼が落ちてき た。そうか!私は私のことを嫌いになっていた。思慮深いのではなく、考えが遅いんだ。史子の愛情に感謝 もできず浸っていた。由季を憎んでも何もできない醜い私。ミンに八つ当たりしてしまった馬鹿な私。こんな 私を辻上君は醜いと非難した。私が私でなくなる必要に迫られた。私は暗いのだ。私は肥えている。体 質だと思った。私は私でなくなりたいと思った。生まれ変わりたいと思った。そのとき、目の前で人が死ん だ。生まれ変わるのと死ぬのは違う。そんなことを思ったとたん気を失って熊田医院に担がれた。 「中山さん」と、看護師が来たときは、私は心の痞えに気付いて長椅子に座り直していた。 「ごめんなさい、今日は張り切りすぎたの。病室に戻ります」 情けないことにわたしは看護師に腕をとられ、付き添われて病室に戻った。 一通り血圧など測られて「大丈夫」とは言ってもらったものの、へとへとになっていた私はこれ以上は堪 えられないと強く思った。思うことが大切と小阪先生にも言われていた。実際、力がほしいとうずうずしてい た。でも、食欲までは及ばなかった。きっと、心の傷の部分がわかったから、そのことと差し向かいで語り合え ば何とかなると思い込んだ。そうそう、私は私が嫌いで仕方がないんだ。でも、人間は変われる。変わること が成長なのだと前向き思考を決め込んだ。

蜂蜜ジュースを飲んでベッドで落ち着く頃に、タイミングを図ったように史子が顔を出した。 「これが試験問題。今は見ないでね。まるで病人みたいな顔してるから、それを先に何とかしてよね。お 土産はなしだけど、何でも食べられるようになったら、モン・ナポのプリンくらい買ってくる。重病人になったら フルーツバスケットにするけど」

「プリンくらい食べてもいいのよ。病院食も食べてないし」 「疲労回復にはいいけど、ダイエットには向かないかな。でも、疲れて見える。少し痩せた?」 「そういうことは考えても見なかった。そうよね。食べてないんだから痩せるかも」と言いつつ、食べないこと と痩せることは関係ないと自分に言い聞かせた。ダイエットと言う発想は危険だと小阪先生が言ってた。

「電話してくれたとおり、由季から引越し先、聞いておいたけど、由季の要望で2ヶ月は連絡とらないで って言われてる」

「どうして?」 「もし、さゆみだったら、やっぱりそうするでしょ。いや、引越し先、教えないかもしれない」 「そうかなぁ」私以上に私の行動パターンを理解していると言うのか? 「由季にとってここは嫌な思い出の町。人に迷惑をかけた挙句、父親の自殺でこの町から出て行く。そ ういう引きずりたくないものが新しい町まで追いかけてくるのは嫌でしょ」

「それはあるかな。じゃあ、2ヶ月で立ち直るってわけね」 「そういうことなんでしょうね」 辻上君への思いはどうやって断ち切ったのだろう。病的な執心の克服も、家庭の復活も何を心の支え にしてがんばるのだろう。私は単純に体に症状が現れて入院に甘んじている軟弱者なのだ。

「今日、森永君から由季の住所を訊かれたの。こっちの住所よ。あっちのは言ってないけど。いつかなぁ、 さゆみが休む前の日だったかなぁ。クールに見える森永君、人目もはばからずに何か由季に言ってた。内 容はわからなかったけど、『辻上や今井や中山』って聞こえた気がする」

「そんなことあった?」 「あの日、さゆみはさっさと帰っちゃったと思うけど。正直、なんで中山って固有名詞が出てくるのか気に はなってたけど、今思えば、もう由季がばらしちゃってたのよね」

あ、私が辻上君にメモを返された日だろうと思う。

「ちょっと言い過ぎたとかで、顔が真剣で怖かったから、さっさとバス停とか道順とかノートに書いて渡し た」

「へぇー、由季さん、結局あの3人組に何らかのかかわりがあったのね。私が知ってるのは今井君に八つ 当たりしたとかまでだけど」

「今井君はいい人だから、ちゃんと由季が辻上君に相応しいかどうか考えて伝えたと思うわ」 「史子は彼の肩持つわよね」 「そう思っただけよ。だけど、電話番号でなくて住所でしょ。私も住所は知らないからね。森永君、行くつ もりかなぁ。だとしたらもう遅いかもしれない」

「そうね。昨日には出てしまってるわね。でも、もういいじゃない。もう由季はそっとしておこう」 「由季は立派だったよ、お別れの挨拶のとき、教室の前で。口論したあと出て行ったお父さんが次の 日、自殺したこと。会社での問題に巻き込まれて無実の罪を着たと信じているとか、クラスの一部の人に 大変迷惑をかけたとか。隠さずとはいわないけど、あんなふうにちゃんと話すと思わなかった。みんなが静か に聞き入ったわ。お父さんを大切にしてくださいって締めくくられると、しんみりしちゃったけど。基本的にさば さばとしたはっきりした人だったのかもしれない。そう見えなかったこと自体がいつもの由季じゃなかったのね」

私はそこにいて聞いてみたかったと思った。 「そうなんだぁ。女々しいと思ってたわ私も。でも、ストーカーがさばさばとしたはっきりした人かなぁ」 そうだ、きっと、由季も何かが幾らか変わったのだ。そうに違いないと思った。 「変われた」と、口に出ていた。 「え?」 「きっとそう、変われたのよ」と、つぶやくように自分に言っていた。 3人組が私たち3人組を追い越して歩いていったあの日。振り返った今井君が由季を見た意味。由季 が辻上君に振り返ってほしいと願っただろうあのとき。私が巻き込まれることも知らずに眩しく辻上君の背 中を見ていたあのとき。いまさらそれぞれの思いが垣間見える。

―― 6日目の回診。私は自ら診察室を訪れることになっていました。最初に内科へ行きました。 痩せた細い目の藤木先生はいつものように良くなっているとも悪くなっているとも言わず、食べた量とか 吐き気とか訊くだけでした。ただ、

「急に強い食欲が起こっても流されずに、マイペースで、お粥一杯にしておくこと」と言われました。私は 食欲がまともに湧けばいいと願っていたので、ちょっとひっかかりました。

「お返事してください」 「あ、はい、分かりました」 自分の体のことなのにまだ質問する気力が性格的に出てこない私でした。

 

ダイエットは私が見える

私は小阪先生を訪ねて話したいことがいろいろあったため、彼女の診察室に入るのが楽しみだった。私 は人に会うことを楽しみにしたことがあまりなかったように思う。

由季の教室での別れの挨拶について話し、彼女の病的な執心の克服、家庭の復活などの課題へ前 向きなのに感心したことを話した。私は入院に甘んじている軟弱者だと思ったまま言った。

「前向きと言うことは後ろ向きでないと思ってるでしょ」 「はい」 「入院したから軟弱者なの?、前でも後ろでも好きなほうに考えるためには母体が傷ついてちゃ駄目で しょ」

「でも、私は何かの病気なんですか?」 「入院してるのに?あなたは病気で、治療中なの。治療を受けるのは当然です。治るものは治るときが 来るの。今はそのときが来てないだけ」

「あ、そうなのかも」言いながら私は女性の先輩としてこの人とずっと話していたい気持ちが湧いていた。 クラブの先輩に対してもこんな気持ちになったことがない。本当は誰にも心を開いてこなかった側面が見え た。

「常に前向きって考えは結局、自分を傷つけたりする。前向きでない自分も受け入れなきゃね」 いつも少しだけホッとさせるのがいいのかも。 「自分は不完全の中に居ると思って。本来の自分は完全じゃないくらいにね」 「そういうことが私にはあります。何がどうあるべきかを子供じみた理解で思い込んでたと思います。白黒 はっきりさせたいと思うから法律とか興味が出たし。でも、最近、急にいろいろわかり始めて、どのくらい悪い ことなのか、どのくらいの被害なのか、上から審判を下せないと気がすまない私は、消化不良なんです。そ して、そういう自分が嫌になったと思います」

私は流れるように喋った。 「自分を受け入れられないのは、うその自分を心に作ってたからよ。だから、自分が嫌いになってゆく」 ああそうか。診察室だけでなく、普段どこでも、もっと素直であればよかった。続けて、ゆがんだ私を見た ときの自己嫌悪の再認識についても話していた。

―― 7日目、心も落ち着き始め、人が落ちてくる瞬間的な悪夢を見ることもなくなりました。私は変われるよ うな気がしてきました。食べないのは今までとは違う自分になる象徴的な行いだと思えました。その日、節 子さんが着替えを持って帰るとき、入れ替わりに思いも寄らぬ人が来ました。この人の訪問は私にとって 特効薬になったのです。

「お友達ですよ」と、節子さんは彼女を中に入れると、彼女が持って来た花を生けるため、牛乳瓶を洗 います。

私は誰だかぴんと来ず、馬鹿になってしまったのかと思いました。同じ学校の制服を着た彼女も言葉に 迷っている様子。

「これでよし。じゃあ、帰るね。ごゆっくり」と、節子さんが出て行っても、彼女は困ったような顔して立って いた。情けないことに私は彼女が誰なのか思い出せなくて、声がかけられなかったのです。

―― 「そこの丸椅子を使ってください」と、指差すと、彼女は丁寧にお辞儀してそれを手に側に来た。 「お疲れなら、またにしますけど」私はその愛らしい声を聞いた途端、クラスメートでしかも副学級委員だ と思い出した。疲れは頭にも来るというのがこの入院でよくわかったから、脳も心も自分の体だと認識でき た。名前が思い出せなくても仕方ないと思って、素直の第一歩として「それはいいんだけど、お名前が思い 出せないの」と言った。

「南です」『南さんが持ってたから』って由季が言った。あの南さんだ。そうだ、辻上君の隣の隣が森永君、その隣がこの人だとちゃんとホームルームに存在していることを思い出した。

「ああ、そうだった。頭が回らない病気でもあるみたい」 「疲れてるように見えたものだから。当たり前よね」 「びっくりした。給食のパンを届けに来たんじゃないんでしょ」と、私はジョークが言えた。気持ちに余裕が 出ている。変われると思った。

「伝書鳩みたいなもの」と言って彼女は椅子に掛けると、また、困ったような顔になった。 「中山さん、今さら遅いんだけど、辻上君が謝りたいって言うの」そこまで聞いただけで、私は少し混乱し た。心因性の拒食という言葉は史子によって周知のことだろう。その原因に思い当たる彼が謝りたいと思 っても不思議でない。また好きになるような事言わないでと思った。そして、不思議なのは彼女だ。

「あなたにひどい事言ったって反省してた」と、彼女は私の反応を見る。 私はなんだかほっとしたような気になっていた。事実、辻上君のいやな印象は自分の中で否定していた ことで、ずっと葛藤していたことでもある。やっぱり普通に謝れる人だ。良かったと思った。

「もしかしたら、病気の原因は、自分の言ったことじゃないかって。今更だけど、とても悪いことしたって言 ってた」

「そう。いいのよ、私にはこんな体験が必要だったみたいだし。でも、南さんに彼が頼んだの?」 「ええ。だけど、私にも責任があるの」 「へ?」 「辻上君は育ちのいい人で、ひどいことなんて言えない人よ。ちょっと気難しいとことか、子供っぽいとこは あるけど。彼が中山さんに言ったことは本来なら絶対に言わないことよ」

「そうだと思うけど。でも、言われたことはあたってた。私が意地張って受け入れてなかっただけ」 「それを聞いてよかった。私ね」と言って続きをためらっている。 「もう何とも思ってないって」と、言ってあげた。「と言うか、彼が謝りたいなんて、気持ちがあるだけでいい わ」

「ありがとう。本人が来るべきかもしれないけど、怖くて来られないって」 「私が怖い?あ、怒り出すと思って?」 「難しそうな病気だから悪化するかもしれないとか。それに、柄にもなく女の子の部屋だからとか」 前者はなるほどと思う。だけど、後者は何を言ってるんだろう。意外にもシャイなのか?そういうひとだった のか。

「私ね」と、また、止まったが一息ついて彼女は続けた。 「メモのこと聞いて。これは彼から聞いたんだけど。相手の人のこと問い詰めちゃったの」 「南さんが?」と言いつつ、あっと思った。 「まえにもあって、私からきっぱりとした態度を取るように言ったんだけど、クラスの誰かが中山さんにメモを 入れたって河村さんから聞いたの。その返事が辻上君に来たって言うから、私、問い詰めちゃったの」

「そう、そういう人が辻上君にいたんだぁ。こういうお嬢様タイプでしっかり者がお好みだったか。由季さんと は少し違うわね」

「ごめんなさい。私が変に疑わなかったら良かったの」 「そういうことだったのね、あのとき、辻上君、とってもイライラしていて何だか怒ってたみたい。いくらなんで も怒らなくてもいいって思ったけど、黒幕の南姉さんに叱られたってわけかぁ」

「私は河村さんにも、結局、悪いことしちゃったのかしら……。言いにくいけど、辻上君から交際申し込ま れたから、絶対浮気しないならって。私も何言ってるんだか、子供の癖して、浮気も何もないわよね」

「南さんらしいのかもね」 「中山さんには言ったけど、クラスに戻ってもこのことは絶対に内緒にね」 「わかってます。それにね、由季さんに悪いことなんかないよ。由季さんに起こったことは他の人にはわか らない。由季さんが清算することよ。南さんと何の関係もない」と、受け売りを喋っていた。 私の身の回りには素直な人がたくさん居ると思った。私も正直になりたいと思えた。

「話してもらって、よかった。辻上君への誤解もわかった。病気はすぐに治るらしいし、辻上君が気にする ことないわ。それが原因だとか思わないで」

「ありがとう。そう伝える。――何だか中山さん、思ってたより明るくて、しっかりした人なのね。早く戻って きてね」

私は南さんの言葉を嬉しく思った。私は変わってきたのだと思えた。容姿を棚に上げても釣り合うひとで はない感じがしてどこか育ちのいい雰囲気の彼女は私の視野に入っていなかった。学校に行ったら私から 手を伸ばして友達になってゆこう。

―― 私は9日目にして胃の痛みのような食欲とは違う心からの欲求が湧いて来ました。昼に配膳されるお 粥一杯を食べても一向に食べた気がしなくて、ジュースを飲み、売店で人目を憚りながらメロンパンを2つ 買っていました。ちゃんと懐かしい食感を感じたし、食べることは不快ではなかったのです。不思議と吐くか も知れないとは思えませんでした。

治るのか!という期待もあり、私は藤木先生の言いつけを忘れたわけではないのに、久々に腹7部くら い食べたかも知れません。『急に強い食欲が起こっても流されずに』とは、ありえないこととして聞き流してい ました。

でも、眠くなったと思ったら、期待を大きく裏切る吐き気で目を覚まし、実際に戻してしまいました。 後は自己嫌悪に苛まれました。約束どおり、内科詰所に報告に行きました。看護師さんは「みんなで 治そうとしているんですよ」と、小言を言い、藤木先生への告げ口電話をします。

私は病室で落ち込んでいるしかありませんでした。せっかく南さんの訪問以来、気を良くしてたのに。体 は良くなるんでしょうか?

―― 夕方前、私は病室に顔を出した小阪先生に廊下の突き当りまで連れ出された。小阪先生はいつにな く厳しい口調で切り出す。

「食べたくないから食べない。食べたくなったら食べる。そんなことがあなたの病気に許されると思ってる の?」

「ごめんなさい」私は恐縮していた。 「食べ方はとても重要なことなのよ」 この人は私のことを思って言ってくれている。怒らせてはいけなかったと反省した。 「治ったのかもしれないって、ちょっと思ったから」 「そんな大切なことをあなたが一人で判断していいのかしら」 「判断したんじゃないです。ほんとに、ちょっと気が緩んでしまいました。先生の言いつけは守ります。ま だ、吐くんですね私」

「拒食と過食、どちらも同じ、表裏一体のものなのよ。これが交互に起こったら大変なの。普通、大変 な状態になってから病院に来る。治療が長引くから生活に影響が出ないように通院になる。人の監視が ないと、つい食べてしまって、なかなか治らない。言ったでしょ、すぐに良くなるって。さゆみさんの場合は珍し く急性で、拒食だけだからそう言ったのに。本人に治す気がなければ……」

「いいえ」と遮った。「本当に魔が差したんです。治る気がしたから」 彼女はため息をついて優しい目変わった。少しホッとした私は頭を下げて窓から外を見た。 「あなたのそういうところを、見てもらいたいの。――二つの輪があるでしょ、ほら、石が並べてある」 見ると、庭に植えてある2本の木の根元を囲むようにそれぞれ岩石が並べてある。 「向こう側の輪の中にあなたは居ると思ってる。手前は魔が差したときのあなたが居る輪。あっちの輪の 中にあなたは居ないのに、あっちに居ると思い込んでる。わかる?」 「魔が差したんじゃないってことですか?」と、暗い声になった。 「ええ」と、きっぱり先生は言う。 「さゆみさんは本当は手前に居るの。魔が差したから食べてしまったんじゃなくて、さゆみさんはそういう人なの。言いつけられてても、つい食べてしまうひとなの」

私はプライドを傷つけられているような痛みを覚えた。先生は続ける。 「いいこと、自分は不完全の中に居ると思って。ってこの前言ったのを憶えてる?本来は完全側なんだ けど、たまたま不完全なことをしたんじゃないの。あなたはわがままする人なの。本来は向こうの輪に居るは ずなのに、たまたま手前の輪に入ってしまったなんて、プライドの持ちすぎよ」

見透かされたような気がした。実際、プライドが傷つく感じを覚えていた。小阪先生の言うことだから、き っとこれで傷つくこと自体が変なのだとも思い惑っていた。すると、さらに見透かしたように先生は続けた。

「プライドってね、自意識を肥大させた勘違いではだめなのよ。『プライドにかけて食べない』と思うべきと ころで、食べてしまったのならそのレベルのプライドを持っちゃだめ。低レベルの自分を受け入れて反省して 自分からブライドに掛けるの。ほら、手前の輪の中から向こう側を見ては、ああでありたいと憧れているのが 現実のさゆみさん。食べたいから食べるさゆみさんよ。向こうに居るつもりになったら、あなたはいつもいつ も、『私はこんなはずじゃない』って思いつづけることになるわ。それが自己嫌悪よ。人はそれでイライラした り、鬱憤晴らししたりして反省を怠る。プライドを勘違いしてるとね、私は本当はちゃんとしているはずなの に、何しても考えている通りにならない。自己嫌悪がひどくなる。あなたは拒食というかたちになった」

わかる?というように肩に手を回してパタパタとたたいた。そうか、プライドがあるから、傷つくし、プライドが 実際より高いから私は自分をだめだと思って嫌う。

「言いたかったのはそのこと。さ、戻りましょうか」 「あっちの輪の中に、私は入れるの?」 「入れないわ。目と鼻の先じゃなさそう。夢の世界と現実くらいに遠いみたいよ」 私の中でいろいろ整理がつき始めたその頃から少しだけ食べられるようにもなった。前向きに考えるべき じゃなくて、前向きに憧れればいいというニュアンスは私のお気に入りになった。私は良心と仲良く付き合っ ていくことになるから、ミンのことは心の痞えとして持ちつづけなきゃいけない。それがいやだと考えちゃけな い。これからも自分のしたことでいろんな人にいろんな関係を伝っていろんなことが起こるだろうけど、反省 すべきを反省し、罪と思えば背負うしかないし、償えるなら償えばいいんだ。混沌とした疲労した体の中か ら澄んだ、僅かに整理された感覚を覚えた。僧侶は断食の中で澄んだ意識を得るのだろうか。

勝手に思い込んだりしないで、背景を見渡す余裕が要る。子供に、私に足りない能力だと思う。とりあ えず、史子を目標に変わってゆこう。

―― 14日目にしてやっと私は吐かなくなり、ちゃんと3度の食事を摂ることと、突然腹7部も食べたりしない ように指示されて錠剤と少しの食事から始める自宅療養に変わりました。あとは体力だけ回復すれば学 校へも行けるのです。

自宅療養に帰った日、史子は由季からもらったものを持って来ました。史子が由季にせがんで譲っても らったそれは、由季が使っていたスカートでした。私は史子に薦められるままに履いてみるとちゃんとお尻を 通りました。

「ちょっとばかりキツメかな。入るとは思わなかったのに」と、私は純粋にびっくりしました。 「全然履けるじゃない。ちょっと長いかな」 「由季さんの身長は68くらいあるよね。8センチも違うとね」 「これでいつでも学校行けるね」 まったくそのとおりでした。私のスカートは履いてみるとぶかぶかになっていて履きたくないと思いましたか ら、史子の気遣いには助かりました。彼女以外、私を含めて誰もスカートを気にしていなかったし、母なん かブティックに行ってながら気付かないし。

十二キロ減った体重以上にウエストは減っていました。減ってほしいとこから減るって内科の藤木先生 は言ってた。小阪先生は『そんなこと聞かなかったことにしなさい』とか言ってたけど。実際に結果としてそう なると気分が明るくなります。ああ、女なんですね。そこからも逃げないで受け入れて、その上で理想に憧 れればいい。ダイエットする人の気持ちが今更わかりました。食べたいものを食べないで痩せようとする気力の源はこの晴れがましさに違いない。私はそんな努力もしたことがありません。だから、神様が努力させたの かな

 

ダイエットと進歩

そんなこんなで二十日間、学校を休んだ私は、二十一日目にしてゆっくりと登校することになった。予 習も何もしていなかった私は幸い、試験で授業が進んでなかったこともあって、大幅な浦島太郎状態にな らずに済んだ。私を教室で待ってるのは女子の歓声。痩せたと言うことより、樽型からグラマーに変わったと 言う噂話が先行していたからのようだ。

私は前日、二時間目から出席すると連絡を入れていた。入院前の私のように公園を突っ切るだけでへ とへとになるかもしれなかったから。私はそれでも思ったより早めに学校の近くまで行けた。実際、2時間目 が始まるまでには25分もあった。それなりに疲れていた私は、学校で眠らないためにもテニスコート脇のベ ンチに掛けた。

なぜかコートや運動場の向こうに校舎があり、この配置がいたずらに学校を遠くしていると思った。もう日 差しは初夏の香り。白い雲に覆われると、涼しさにホッとする。誰かが歩いて来て後ろを通り過ぎる。と思 ったが、その人は私の後ろから前にまわった。

「おはよう。僕は遅刻だ」と、彼は言った。 森永君も何だか疲れていた。 「河村のことではいろいろあったね。謝らなきゃいけない」 「由季さんに会ったの?」 「え?ああ、いや、もう居なかった。河村にはきついこと言ってしまって。あのすぐ後、親父さんが自殺した だろ。俺、河村の異常さにむかついて、親に話つけてもいいんだとか言った。学校に訴えたらそれなりに問 題になるとか」

そうだったんだ。この人も私と同じように恐ろしいことを推測して怖くなったに違いない。 「知らないこと。お父さんのことはお父さんしか分からない。由季さんのことは由季さんしかわからない。口 論だって、何を言い合ったかわからない。はっきりしているのは、知らないことってこと。詮索するのは止めま しょう」

いったい何が彼を熱くしたのか、推理できているつもりだった。 「あやまらなくても分かってるわ由季さんは。私も2ヶ月、連絡とらないことになってる」 「河村を許したのか?」 「あたりまえでしょ。私はいい経験させてもらった」 お互いに何をどこまで知っているのか、お構いなしで喋っていた。 森永君は私を見つめたと思うと目をそらして伸びをした。 「辻上が好きなんだよね」 「好きって言うのとはちがうわ。でも、ちょっとかわいいかな」と、私は南嬢の尻に敷かれた彼を思った。 「そうか。ならいいんだ。……河村って、猫、飼ってたか?」 「え?!」 「家に行ったら、扉を引っ掻いてる猫が居た。手作りの首輪がついてる、ミンて書いてある」

私は息を呑んだ。「由季さんは猫が居なくなったって!」 「そういうことか。俺、つれて帰ったんだ」 私は目を閉じた。涙があふれそうなのを堪えた。すぐにハンカチでひとふきして、『ありがとう』と、すがり付 いて泣きたいくらいの思いを抑えて、「2ヶ月たったら届けなきゃね」なんて言った。

「謝りたいのは河村にじゃないんだ。――そうだ、今井が預かってたままになってたものが」と、彼は懐かし いメモを差し出した。『元気のない君は本当はハッとする素敵な笑顔を持っている。それを見たくて君を見 守っている。でも、笑わない君に変わってゆくのが気になる』

彼は受け取った私を見ていた。 「森永君、河村さんにどうしてひどいことが言えたの?森永君、クールだと思ってたのに」 きっと彼は遅刻したんじゃないと確信した。こんな形で会ってくれて私も良かったと思った。

3人組が私たち3人組を追い越して歩いていったあの日。振り返らなかったあなたの心中はメモのことが 気になってたのよね。

私は手帳からはさんでいたメモを取り出し、お返しよと、差し出した。『あなたですか、私のこと見てくれる のは。もしそうなら、そうだと言う笑顔を下さい。そうでないと、私は笑顔を忘れてしまいます』

彼は手にすると、寂しく笑う。 「俺が受け取っていいのか?」 「受け取るべき人が受け取るべきよ」と言いながら頬が染まるのが分かった。 彼は手に取ると、深く頭を下げた。 「俺に河村は責められないんだ。同じようなことしてるんだからな。君を巻き込む、そもそものきっかけは、 俺のちっぽけな行動力だ」彼は頭を上げるとまた私を見ていた。

「中山、ちょっと見ない間に、綺麗になったな」 ―― そのとき、私は変われたのだと思いました。あ・な・たが、そう言ってくれました。

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